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否定的事実はある、否定的事態もある

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note)の続きです。ここから5章の分析です。
 引用部分は、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。

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1.否定的事実はある、否定的事態もある


 野矢氏は「状況」(野矢、108ページ)、「真理根拠」(野矢、109ページ)、「真理領域」(野矢、109ページ)といった用語を引き合いに出して否定について語ろうとするのであるが・・・
 「灯りが点灯していない」(野矢、105~106ページの事例より)という事例について考えてみよう。私たちは家(でもどこでも良いのだが)の灯りが点灯している光景も点灯していない光景も両方見たことがあるはずである。そして、その灯りが点灯している状況、点灯していない状況それぞれを想像することもできるし、描くこともできる。
 これがすべてである。つまり否定的事実も否定的事態もどちらも実際に私たちの日常に現れているということなのである。
いかに小難しい概念(用語)や論理を引き合いに出そうとも、この事実がすべての説明を無効にする。
 つまり野矢氏(ウィトゲンシュタインもか?)の説明に問題があるということになる。具体的に説明していこう。

2.真偽と肯定・否定との関係/否定は現実の対象を必要とする

 まず、真偽と肯定・否定との関係について吟味しようと思う。野矢氏・ウィトゲンシュタインが真偽と肯定・否定とを混同しているというわけではないのであるが、この当たり前とも考えられる関係を見直していくことで、「現実」としての否定について明らかにしてみようと思う。
 真偽とは、要するに言語表現の正しさ、言語表現と事態・事実との正確な繋がりの問題である。言語表現されなければそこに真偽もない。事態そのもの・事実そのものをいくら観察してもそこにあるのはただの知覚経験のみ、真偽の根拠など出てこない。
 一方、否定は必ずしも真偽に直結するわけではない。否定も言語表現の一つではある。しかし真偽と否定が一致するとは限らない。以下の事例を参考に一応確かめてみよう。

机の上に本がある。外を人が歩いている。どこかでセミが鳴いている。すべては肯定的事実でしかない。どうして否定ということが生じるのか。単純に言って、われわれが何かをそこに期待するからである。テーブルにパンダがいるという事実の可能性を把握し、「テーブルの上にパンダがいるかもしれない」と思う人だけが、「テーブルの上にパンダはいない」という記述を与えるだろう。ということは、言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれている人だけが、否定を捉えうるのである。ただひたすら現実を見るだけでは、否定に対応するいかなる要素も見出されはしない。すなわち、否定とは現実に存在する対象ではない。

(野矢、102ページ)

「テーブルの上にパンダはいない」とか「パンダはいる」とか言語表現する動機など知りようもない。そもそも、どうして否定ということが生じるのか、その理由を問うこと自体に意義はない。
 テーブルにパンダ(のぬいぐるみ?)があるかないかで真偽は決まる。このとき否定と真偽とが一致するわけではない。混乱するので「パンダがいる」=「パンダのぬいぐるみがある」ということで話を進める。

① 実際にテーブルの上にパンダのぬいぐるみがあった場合
    a.「テーブルの上にパンダはいる」(肯定)→真
 b.「テーブルの上にパンダはいない」(否定)→偽
② 実際にテーブルの上にパンダのぬいぐるみがなかった場合
    a.「テーブルの上にパンダはいる」(肯定)→偽
 b.「テーブルの上にパンダはいない」(否定)→真

上記②の場合は真偽と肯定・否定とが一致しないのである。(当たり前といえば当たり前であるが)否定が正しい場合もあるということである。つまり否定命題が現実と一致するということなのである。②のとき、目の前の机の上にパンダのぬいぐるみがないという「事実」が厳然としてある。パンダのぬいぐるみが知覚経験として現れないという「事実」「現実」なのである。そしてパンダのぬいぐるみを含まない光景が、そこにあるテーブルを含む光景が知覚経験として現れているということでもある。この知覚経験=事実なしに否定は成立しないし、真偽の判断もできない。「現実」を見ることで、否定を含む言語表現がいかなるものなのか知ることができるのである。
 もちろんその際、「パンダのぬいぐるみ」という対象が事態として想像されている(されうる)必要はある。パンダのぬいぐるみに関する知識があって(パンダのぬいぐるみについて知っていて)はじめてその否定ができるからである。「言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれている人だけが、否定を捉えうるのである」という上記の説明は、このように解釈することもできよう。「可能性」という表現がややミスリーディング、ニュアンスがやや歪められている印象を受けるのではあるが・・・

 否定的事態などないということに関して、もう少し述べておこう。ウィトゲンシュタインは何箇所かで「否定的事実」という言い方をしている。たとえば、「われわれはまた、ある事態が成立していることを「肯定的事実」と呼び、成立していないことを「否定的事実」とも呼ぶ(2・06)」、のように。私の考えではこれはきわめてミスリーディングな発言であり、「否定的事実」などという言い方は避けた方が無難だと思うのだが、それはまあよいとしよう。しかし、ウィトゲンシュタインに従って「肯定的事実/否定的事実」という言い方を採用したとしても、「肯定的事態/否定的事態」という言い方は断じて採用できない。そしてまたウィトゲンシュタインもそんな言い方はしない。

(野矢、104ページ)

この野矢氏の発言こそミスリーディングではないだろうか。「否定的事実」は確かにある。それは知覚経験が実際に現れてはいるが、特定の事物・事象のみが現れていないのである。
 そして最初に「灯りが点灯している・いない」の事例で示したように、私たちは灯りが点灯している状況もしていない状況も想像することができる。つまり像を描けるのである。「肯定的事態/否定的事態」双方ともに実現可能なのである。そしてそのとき、点灯していようといまいと、「灯り」が事実・事態として現れていることが必須となることは言うまでもない。ここで否定的事態とは「灯り」が対象=事態として現れているがそれが「点灯していない」事態のことなのである。そして否定的事実とは、そこに実際に「灯り」があり、それが「点灯していない」ことなのである。
 なぜ野矢氏の見解が上記のようになってしまうのか・・・それは言葉と像とを混同しているからではなかろうか。灯りが点灯していない状況を描くとする。その図や絵を指して「灯りが点灯している」と言えばその言語表現は偽となる。一方「灯りが点灯していない」と言えば真となる。否定的事態が真になるのである。
 もちろんただ想像しただけの事態に真も偽もない(もちろん知覚しただけの事実にも真偽はない)。肯定も否定もない。しかしそれらを言語表現するから真偽や肯定・否定が生じる。否定語も言語であることにかわりはない。そして否定が成立するためには対象としての事態・事実が必須なのである。
 「名」かどうかという分類にこだわるから話がおかしくなってしまうのだ。ただ言葉とそれに対応する事態・事実の関係と捉えれば、話は単純なのである。比定詞・否定語、それで良いではないか。

「それじゃあ、肯定命題『p』も否定命題『pではない』も、同じ事態pの像になってしまうが、それでよいのか?」と尋ねられるかもしれないが、それでよいのである。事態の側に否定に対応する対象を認めない以上、そう結論するしかない。ならば、肯定も否定も像として同じものなのかと言えば、それはそうではない。両者はたしかに同一の事態を写している。しかし、肯定命題と否定命題はそれぞれ異なった仕方で、それを写しとっているのである。つまり、肯定命題は事態を肯定的に写し、否定命題はそれを否定的に写す。

(野矢、111ページ)

・・・果たしてこの説明で納得できるであろうか? 同じ対象・事態を肯定的に写すとか否定的に写すとか果たしてできるのであろうか? できようはずもない。この野矢氏の説明自体がナンセンス・矛盾となってはいないだろうか。
 既に(私が)説明してきたように、肯定命題と否定命題、それぞれの対象としての事態・事実は確かにあり、それらは確かに異なる事態・事実なのだ。異なった仕方で言語表現するのであれば、それが肯定/否定であればなおさら、違う事態でなければならないのである。
 ここまで来ると、もはや「像」という用語そのものがミスリーディングではないかという気さえしてくる。そもそもそこにあるのは言葉と事態・事実のみであり、像やシンボル(さらには後述する「状況」)などといった用語など不必要だからである。

3.命題pに対応する事態・事実が命題pの意味、そして命題¬pに対応する事態・事実が命題¬pの意味である

「否定的事態」が何を意味しうるかを考えてみよう。事態とは可能的な事実のことであった。それゆえ、ある事態が現実に成立していないことが「否定的事実」と呼ばれるのであれば、それに対応して、「否定的事態」とは「ある事態が成り立っていない可能性」を意味することになるだろう。だとすればどうにもばかげた質問なのだが、こう問われることになる。――ここで不成立の可能性を言われている「ある事態」とは、肯定的事態なのか、それとも否定的事態なのか。肯定的事態であるとしよう。そのとき、いま「否定的事態」と言われたものは正確には「否定的肯定的事態」と言われねばならない。そしてそれはどういう意味かと言えば、「ある事態が成り立っている可能性が成り立っていない可能性」ということになる・・・(中略)・・・以下延々と続き、無限後退となる。事態の成立/不成立の可能性はもはや事態ではありえないのである。肯定的事態も否定的事態もありえない。あえて言えば、事態とは肯定的でしかありえない。

(野矢、104~105ページ)

・・・ここで「可能性」という言葉が非常にミスリーディングである。「否定的事態」とは「ある事態が成り立っていない可能性」ではなく、否定詞(否定語?)を用いた文章(言語表現)に対応する事態を想像できる・描くことができる、という事実を意味するのである。それゆえに無限後退も存在しない。「否定的」「肯定的」「可能性」という言葉を用いたナンセンスな言葉遊びなのである。
 「論理空間とは、現実世界に対して世界の可能性を示すもの」(野矢、103ページ)という説明は不正確である。既に(私が)説明したように、言語表現に対応する事態を描けるか想像できるかどうか、それこそが論理空間の範囲なのである(想像可能性と言い換えることもできよう)。野矢氏(ウィトゲンシュタインもか?)が想像可能性と実現可能性とを混同している(あるいはその違いに気づいていない)ことも既に私が指摘したとおりである。
 繰り返しになってしまうが、言語表現しないかぎり「肯定的事態も否定的事態もありえない」のは当然である。その事態が言語表現されたとき、はじめて肯定・否定、さらには真偽というものが現れてくるのである。
 ポチという白い犬が実際にいたとして「ポチは白くない」状況を想像することはできる。茶色のポチ、灰色のポチ・・・要するに「白」でなければ良いのである。否定命題の対象である事態(像)が描けているではないか。ウィトゲンシュタインは「状況(Sachlage)」という別の用語を持ち出し論理空間について説明しようとしている。

状況とは、いくつかの事態の集合(あるいは空集合)にほかならない。そして、論理空間とは、可能な状況の集合である。

(野矢、108ページ)

・・・しかし、事態が描けることが論理空間の根拠なのであって、わざわざ状況という言葉を持ち出す意義はあるのだろうか? そもそも事態の集合なのだからそれらは事態であることに変わりはない。
 また、(上記の説明における)空集合(つまり否定命題)といえども、あくまで特定の事物のみが欠けているだけで、そこに何らかの想像(された光景)、心像や知覚経験がなければならないのであって、具体的経験としてはやはり何らかの事態・事実として現れていることが必要なのである。

命題pに対して、それを真にするような個々の状況のことは命題pの「真理根拠」と呼んでいる。

(野矢、109ページ)

ウィトゲンシュタイン自身の用語ではないが、命題pに対してそれを真にするような状況をすべて集めた領域を、命題pの「真理領域」と呼ぶことにしたい。

(野矢、109ページ)

・・・このように定義されているのであるが、肯定命題には肯定命題の真理根拠・真理領域があり、否定命題¬pには否定命題の真理根拠・真理領域がある。命題が有意味ということは、その命題に対応する何らかの事態・事実が現れうるということなのであるから。
 野矢氏は「真理領域」こそが命題の「意味」ではないかと述べられている(野矢、110ページ:※ただしウィトゲンシュタインはそうは言っていてないとのことである)。ここまでの私の説明から、命題pの真理領域=命題pに対応する事態・事実ということになる。
 つまり、命題pに対応する事態・事実、それこそがその命題pの意味なのである。同様に、命題¬pの真理領域=命題¬pに対応する事態・事実、そして命題¬pに対応する事態・事実、それこそがその命題¬pの意味なのである。

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