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√2、√2の√2乗とは何なのか・・・?

否定的事実はある、否定的事態もある
https://note.com/keikenron/n/n8ac60d37d93d

の記事で、

puremoruさんよりコメントがありました。

2023年3月26日
人間の理性を超えることを扱おうとするとき、論理的に考えることでそれに結論を出そうとします。ところが世界の事態にすべてを還元しようとすると、それができません。
例えば「ルート2は無理数」を背理法で証明することについてどう思われるでしょうか。2つ問題があるように思います。

1. ルート2に直観が働かない、世界の事態と対応させられない
2. 背理法では二重否定を肯定と捉えるので排中律を仮定している。だが、文章に直観が働かない場合、排中律が正しいかどうかも判断できない

仰ることは大変共感できるのですが、一方で、「人間には証明抜きではわからないこと」や「直観的ではないこと」も理解したいと思ってしまいます。そこをどう折り合いつければいいと思われるでしょうか。

・・・というご質問に対し、私からの回答です。

貴重なコメントありがとうございます!
返事遅くなってすみません。

(1)否定にもいろいろある

否定的事実はある、否定的事態もある
https://note.com/keikenron/n/n8ac60d37d93d

の内容については、

論理式を否定できるときとできないときがある
https://note.com/keikenron/n/n679859d79c8e

でも説明しましたが、補足が必要でした。本記事では、野矢氏の上げられた事例をもとに分析した結果として、否定的事実・事態が実際にあることが明らかだったのですが、他の事例(二等辺三角形)を見てみたとき、否定がナンセンスになる場合もあることが分かりました。

改めて具体的に考えてみると、一言で「否定」といってもいろいろなパターンがあることがわかりますね・・・今は野矢氏の「論理哲学論考を読む」の内容とからめながら、「否定」と「ナンセンス」についてまとめようとしているところです。

また、想像できる事柄とできない事柄の境界がどこか、何をもってナンセンス・無意味と呼ぶのかについても、議論の余地があると思います。

(2)「論理的に考える」とは

理性とは具体的に何か不明確ですが・・・おそらく私たちが具体的事態として想像できない次元における論理とはいったい何なのか、という問題になってくると思います。

「論理的に考える」といっても、現実の事実関係に即して考える場合もあれば、そこから経験則としての論理を抽出し、経験していない事柄について推測することもできます。演繹とは推論のことに他なりません。私たちの経験してない事柄においてもそれらの経験則が通用するのだと信頼しながら生活しています。そして実際に私たちの生活と齟齬がないことがほとんどなので(齟齬が生じることもありうるが)、それらの論理に信頼を置いていると思います。

ただ、その演繹の結果が本当に「正しい」のかどうか、究極的にはそれが現実世界(事実)と合致しているかどうか(あるいはとりあえず齟齬なく説明できているかどうか)で確かめるしかないと思います。究極的には、論理は論理そのものでその正しさを確かめることはできません。

極論を言ってしまえば、推論というものは”論理的”でなくても良いのです。当てずっぽうも推論です。その当てずっぽうがたまたま当たってしまえば、それが「正しい」ということになります。いくら論理を尽くした仮説でも現実と乖離していれば、それは正しいとは言えません。

(3)数学における事実と仮説

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

の27~29ページで説明していますが、算数・数学も究極的には具体的経験により根拠づけられています。具体的事物との対応関係をもとに導き出された論理です。

しかし数が非常に大きくなって、数えきれない場合はどうなのでしょうか?

1+1=2なのは、指やら石ころやらで具体的に示すことができます(というか、そういうふうに示すしか方法がない、論理で説明できない領域)。

一方、「1恒河沙+1=1恒河沙1」となることは具体的に示すことができません。ここまで来ると仮説の領域だと思います。(実際に示すことができれば仮説ではなくなりますが)

ひょっとして数が非常に大きくなってしまったとき、それ以上物体や物質の数が増えることのない上限というものがこの宇宙(?)にはあるかもしれません。ひょっとして「1恒河沙+1=1恒河沙」となってしまう可能性もあるのです。

(4)経験則が通用する条件が維持されているのか

>2. 背理法では二重否定を肯定と捉えるので排中律を仮定している。だが、文章に直観が働かない場合、排中律が正しいかどうかも判断できない

という指摘に関してですが、

論理学におけるトートロジーを前提とした公理系(野矢氏の『論理学』では公理系LPとして紹介されているもの)のようなものも、ただ何の前提もなしにトートロジーであると言えるものではなく、命題(=言葉)と対象との関係にあいまいさがないとか(言葉の示す対象にあいまいさがある事柄については論理学におけるトートロジーが成立しない)、あるいはその他さまざまな前提条件(私がここまでに示してきたような反例を除くとか)のもとで初めて成立するものです。

ウィキペディアの「排中律」
https://ja.wikipedia.org/wiki/排中律
のところを見てみたのですが、

√2の√2乗という数が実際に存在しうるのか、そういったところから検証する必要はあるのかな、数式に何でも代入してよいのかな、そういった疑問が生じて当然だと思います。
√2の√2の√2乗が2となり実数となる、という計算も、本当にそうなのか、疑わしいと思います。そもそもそういう数が実際にあるのか、そういった問題は提示されても良いと思います。

対象が何かよく分からないときに、そこに排中律が適用されるかどうかも明らかではないと思います。√2をどう見るかですが・・・判断に迷うところはありますが、具体的に対象をイメージできないという意味で、排中律が適用できない可能性というのを考えても良いかもしれません(まだ断定はしないでおきます)。

論理(や記号・言語表現)に対応する事実・事態を見出すことができないものは、基本的に仮説です。ただ、その仮説の体系で現実世界の事象を説明できているのであれば、とりあえずそれは正しいと認めておこう、ということだと思います。

しかし本当にその仮説が成立しうるのか、数学の基本的なところから検証する必要があるのでは、とも感じています。

たとえば「虚数」というのはどうなんでしょうか? 数学あまり詳しくないのでコメントしづらいですが、虚数を用いた理論がある局面でパラドクスを起こしたりするような事例があったりするのでしょうか?

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