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想像可能性と実現可能性とを混同しているのではないか:野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析(その2)

野矢茂樹著
『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)
分析の続きです。引用部分も、この本からのものです。

今回の内容は、論理学の様相論理に対する違和感と関係するかも・・・?

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 野矢氏(ウィトゲンシュタイン)の言う「可能性」というものに納得がいかない。「ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士であった」(野矢、28ページ)ことが「可能性として考えられる」(野矢、29ページ)というのである。「現実には事実ではない」(野矢、29ページ)というのは当然であるが・・・ウィトゲンシュタインが宇宙飛行士になろうとした話は知らないし、時代的にもありえない。普通に考えれば可能どころか“不可能”である。
 ウィトゲンシュタインが現代に生きている人であったならばまだ可能性として考えられなくもない。しかし過去の人に関して宇宙飛行士でありえた、という可能性は実際にはない。
 一方、ウィトゲンシュタインが宇宙飛行士だったら・・・と想像したり、小説や絵本を書いたりすることは可能だろう。冬のある日、金粉の雪が降ってあたり一面金粉が降り積もる、という想像はできるが、そんなこと起こる可能性はゼロである(普通に考えて)。狭い範囲ならば人工的に実現可能かもしれないが、それが非常に広い範囲であったとすれば完全に不可能であると考えて良いであろう。
 要するに、ウィトゲンシュタインの言う「可能性」とは「想像可能性」のことであって、現実となる可能性のことではないのである。ここにも混同がある。
 野矢氏によれば、以下のような定義(?)になっている。

世界……現実に成立していることの総体
論理空間……可能性として成立しうることの総体

(野矢、29ページ)

現実的なものとしての「世界」は「成立していることがらの総体」

(野矢、29ページ)

現実には成立しなかったことも合わせ、それら成立したこと・しなかったことをともにもつような「成立しうることがらの総体」、すなわち、世界をその一部として含み、世界よりも大きい何物か。ウィトゲンシュタインは、それを「論理空間」と呼ぶ。

(野矢、29ページ)

 これらの記述から考えるに、ウィトゲンシュタインは想像可能性と実現可能性とを混同しているように思われるのだ。想像が可能かどうかということと、現実として実現可能かどうかということとは別の話ではなかろうか。

論理空間のあり方を明らかにすることは、思考の限界を画定することに直接結びつくものとなるだろう。・・・(中略)・・・論理空間の限界こそ、思考の限界にほかならない。

(野矢、30ページ)

先に述べたが、ここで明らかにされるのは(言語表現の)有意味性の限界の画定であって思考の限界ではない。つまり実質的に「論理空間」とは有意味な言語表現の範囲、ということになる。
 例えば、演繹論理は想像可能性の範囲を超えることがある。論理学の演繹論理として認められている論理式に、具体的事例を当てはめようとしてもナンセンス文になってしまうことがある。また、論理学における条件文はナンセンスな表現をも受け入れてしまうことがある(実質含意・厳密含意のパラドクス)。
 演繹論理は単なる記号の組み合わせである。公理系により定められた規則により単純な命題からより複雑な命題を構築していく。これらは一般的に言う”推論”であると言える。この推論過程は”思考”と言えないだろうか?
 しかし具体的事例を当てはめてみるとナンセンス文になる場合がある。つまり言語表現の有意味性の範囲を超えているものである。具体的事象として想像さえできない、ナンセンス文、矛盾している言語表現である。(※ 注)
 誤った推論、演繹が有意味性の範囲から外れてしまっていたとしても、考えたことは考えたことである。私たちが一般的に言う「思考」であることにはかわりない。


(※ 注)
これらの具体例に関しては、拙著

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学におけ条件法の真理値設定の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である
http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf

で説明している。

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