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” ただ現れるものだけを厳格に禁欲的に受け取る”ことができていない”現象主義”

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析、10章「独我論」の分析です。

只今、11章「自我は対象ではない」と併せて分析レポートを作成中なのですが、野矢氏やウィトゲンシュタインの見解にも一理ある部分があって(だけどそこからの論理がおかしい)、そのあたりをちゃんと掬い取りながら「命題的態度の問題」(野矢、231ページ~)について厳密な説明をしようと思います。

過去の記事は以下のマガジンでどうぞ。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

引用部分は説明がないものに関しては、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。

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ただ現れるものだけを厳格に禁欲的に受け取ることにおいて、現象主義は独我論へと踏み込んでいく。現象主義のもとでは、たとえば他人の頭痛などは意味を失う。他人の痛みは私には現れえない。・・・(中略)・・・「他人の意識」あるいは「他の意識主体」、そう呼ばれるようなものは現象主義の受け取る世界にはもはや何ひとつない。他我が消え去り、ただ自我のみが存在する。すなわち、独我論の世界が開ける。

(野矢、207ページ)

私たちは他人の感覚を自分自身のものとして感じることはできない。できることは想像することだけである。あるいはいやおうなしに(自らの感覚として)感じてしまう場合もあろう。だがしかし、「自我」というものはどこに現れているであろうか?

現われはすべて私の意識への現れでしかありえず、それゆえむしろそれを「私の意識」と言い建てることにはポイントがなくなるのである。

(野矢、207ページ)

・・・そもそも”ポイント”とは何か? 根拠のない説明である。

意識主体たる私は意識の内には現れない。かりに意識された私がいたとして、それは意識主体たる私ではない。その場合にも、そこで意識された私自身を意識している私がいる。意識主体たる私は意識への現れを受け取る主体であり、それはそうした現れを超越しているのでなければならない。そして他人の意識は現れないのだから、私は現れを私への現れと他人への現れとに区別する必要もない。ただ、現れがある。これが現象主義の開く世界にほかならない。

(野矢、207~208ページ)

・・・”ただ現れがある”のだ。「意識主体たる私は意識への現れを受け取る主体であり、それはそうした現れを超越しているのでなければならない」というのは”推論”であって”現れ”ではない。明らかに現象主義の姿勢から逸脱しているのである。”意識への現れを受け取る主体”というものが現れることはない、というのが事実なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけのことなのだ。
 さらに言えば、「意識」というものはどこに現れているのであろうか?  「意識の内」とは何であろうか? 現れるのは見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、言葉を含めた具体的事象でしかなく、そこに「意識」というものが主体と同様に現れることはないのである。
 ウィトゲンシュタインが否定しているのは、厳密には何なのであろうか?
ウィトゲンシュタインは「思考し表象する主体は存在しない」「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、2003年、岩波書店、116ページ)というふうに「(形而上学的)主体」の存在を否定しているのである。実際そういったものは具体的経験として現れることはないし、その見解には私も同意する。
 しかし一方で「私」の存在や「あなた」の存在を否定することもできないのである。他者は私たちの経験として実際に現れているし、「私」の存在にしても、実際に自らの顔や体に触れて確かめることができるし、鏡で自らの姿を見ることもできる(ここで鏡の機能に関する因果的理解がからんではいるのだが)。映像や写真、絵で自らの姿を確かめることもできる。(触感以外は)間接的ではあるが、「私」というものの”現れ”は実際にあるのだ。
 ウィトゲンシュタインは「君は現実に眼を見ることはない」「視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』116ページ)としているが、間接的にならば目を見ることはできるし、目によって見られていることを因果的に理解することも可能である。
 物理的存在としての「私」や「他者」は実際に現れているのである。現れていないのは「(思考し表象する)形而上学的主体」、”現れを超越した主体”なのである。つまり「私」というものは現れる事実・事態やら論理空間やらの”前提”となるもの(=形而上学的主体)ではなく、(具体的経験として)現れる事実・事態から因果的に導かれる実在・物理的存在だということなのだ。
 論理空間との関係で言えば、論理空間の外側(あるいは前提)ではなく論理空間に存在するものだと言えるであろう。

 その上で、現れる様々な経験は「私」という物理的存在が受け取っているものであるという因果的理解がなされている(しばしば形而上学的主体と混同されるのだが)。もちろん日常生活においてそんな理屈をいちいち考えながら暮らしているわけではないのであるが、あらためて根拠づけしようとすればそのような理屈になる。
 そしてそれら具体的経験の現れがあること、それを「意識がある」と呼んでいるのであって、「意識というもの」が現れているわけではないのである。
 一方、他者についてはその存在やその者たちがとる行為・振る舞いを具体的事実として見て取れるのだが、他者が感覚や心情などをいかに抱いているかは、想像するしかない。友人が苦しそうに「歯が痛い」と言うとき、私は友人のその痛みを感じてはいない。マラソン選手がゴール近くで顔をしかめて一生懸命走っているとき、私はその選手の苦しさを感じてはいない。ただ自らの経験に基づき想像するのみである。
 このあたりは難しく考える必要はない。私たちの日常的理解で十分である。私たちが他者の感覚を自らの感覚として直接受け取ることはできないことは(おそらく)誰でも知っている。これまで生きてきた様々な経験則より、全く同じかはわからないが同じ人間としてだいたい同じように感じているに違いないと考え、そう行動し、問題なく過ごしている。ときに問題が生じ、自らの推測について再考したりもするのだが。
 現象主義的に考えても、結局は私たちの日常的経験や日常的経験則に収斂されるだけであって、それが「独我論」につながることはない。それは単なる思い込みでしかない。


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