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論理の「正しさ」は論理空間に支えられている (第9章「命題の構成可能性と無限」に対する若干のコメント)

論理空間とは何なのか ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第8章「論理はア・プリオリである」の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report41.pdf

に<付録>を追加しました。

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 以下、第9章「命題の構成可能性と無限」(野矢、199~204ページ)に対するコメントである。

(1)論理空間のア・プリオリ性は野矢氏自身の説明により(実質的に)完全に否定されている

私が今までに何人の人物と出会ったかによって私の論理空間は大きくも小さくもなる。

(野矢、196ページ)

(2)論理の「正しさ」は論理空間に支えられている

 本稿により、以下のような見解は既に否定されているのだが、再度別の事例から検証してみようと思う。

トートロジーはもはや論理空間のあり方をまったく示唆することがない。それゆえ、トートロジーがトートロジーであるのはいかなる論理空間が設定されるかにさえ先立つ、強い意味でア・プリオリなことなのである。

(野矢、199ページ)

 論理学的トートロジーが幻想であることは以下のレポートで明らかにしている。

A→Bが「正しい」とはどういうことなのか ~真理(値)表とは何なのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf

 また、論理学的トートロジーと論理空間との関係については、以下のレポート

命題を(論理学的)トートロジーと決めつけた上でA→Bの真理値を逆算するのは正当か?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report39.pdf

の第3章「論証の妥当性は論証の形式ではなく内容、そして論理空間にかかわる」で説明している。以下のような論証について、

平賀源内は『スターウォーズ:エピソード1』の出演者である
『スターウォーズ:エピソード1』の出演者はみんなジョージ・ルーカスのことを知っている
_______________________
平賀源内はジョージ・ルーカスのことを知っている

(戸田山和久著『論理学をつくる』(名古屋大学出版会、9ページ)

戸田山氏はこの論証を「偽の命題を含んだ正しい論証」(戸田山『論理学をつくる』10ページ)としている。しかし偽の命題を含んでいる時点で、この論証は既に破綻しているのである。間違いを含んでいる点で、論証が「正しい」と言えるはずがない。
 しかし、平賀源内が現代にタイムスリップしてスターウォーズに出演するというような物語を想像したり描いたりすることはできる。そういった物語上においては上記の論証は「正しい」と言えるようになる。この論点も本稿で説明してきたとおりである。
 つまり戸田山氏は”論理空間の混同”に陥っているのである。論理空間と論証の「正しさ」の関係から言えば、

① 現実という論理空間⇒上記の論証は偽
② (平賀源内がタイムスリップしてスターウォーズに出演するという)物語、あるいは空想された情景という論理空間⇒上記の論証は真

となる。②について、私達はその情景を想像できる(そういった物語を映画にすることもできよう)ということから、命題(そして論証)は有意味性を担保できているように思える。しかし、タイムスリップという現象を厳密に論証しようとすれば、そこにナンセンスな論理・理論が入り込んでいるであろう。ナンセンスと有意味性との境界を厳密に定義することは難しそうである。ゆるく考えれば有意味だが厳密に考えればナンセンスの部分が入り込んでいるからだ(単に定義してしまえば良いだけかもしれないが)。
 いずれにせよ、A→B、B→CならばA→Cという論証の「正しさ」はその”形式”により担保されるのではなく、あくまでA、B、Cという命題の「正しさ」(あるいはA→B、B→Cという命題の「正しさ」)と、その論証の前提となる”論理空間”により定まって来るということなのである。
 さらにもう一つ論点がある。野矢茂樹著『入門!論理学』(中公新書)では次のように述べられている。

私たちがこの本でめざそうとしている論理体系は、さっきも言いましたように、排中律を論理法則として認めるものです。それはつまり、まずはあいまいでない明確な概念だけを扱うことに決める、ということにほかなりません。

(野矢『入門!論理学』49ページ)

つまり二値原理が成立する事柄のみがあるという「論理空間」を前提としたトートロジーであると言えるのだ。「好きでも嫌いでもない」とかいうどちらとも言えないようなあいまいな状況は排中律を支える論理空間から除外されているのである。
 野矢氏は「太郎は勇気がある」という主張に関しても排中律があやしく思われるとしている(野矢『入門!論理学』50~52ページ)。起こりうるかもしれなかったが起こらなかった事象があるかもしれない、勇気があるとかないとか決めつけるには「証拠不十分」(野矢『入門!論理学』52ページ)ではないか、ということなのだ。私が思うに、これも結局は”あいまいさ”の一種と言えるのではなかろうか。


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