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京都でデザインストラテジストとして働きます

はじめまして、Muです。6月から転職で東京から京都にやってきました。

京都ではエンターテイメント系の企業で「デザインストラテジスト」というお仕事をします。なかなか聞き馴染みのない職業だと思うのですが、デザイン思考などを活用しながら事業の将来像や新しいサービスのデザインをするという、少し変わった経営戦略のポジションです。


これまでの僕の人生

現在の話をする前に、少しこれまでの話をしようかと思います。実は今に至るまでかなり紆余曲折ある人生だったのです。

中学・高校時代(技術者英才教育、そして挫折)

いきなり昔にワープしますが、中学は工業大学系の付属にいたため、エレクトロニクス研究部という部活に入り、中一からアマチュア無線免許を取得して144MHz帯(通称いっちょんちょん)を中心に知らないおっさんと無線の交信を行なっていました。他にも高校生の先輩とダンスダンスレボリューションのマシンを作ったり、大学生や社会人の先輩と一緒にLEDライトに音楽を乗せて数百m先まで飛ばす光通信をやっていました。今思うと、かなり特殊な中学生だったと思います。

高校は工業高校の機械工学科に進学し、溶接や旋盤などの機械工作やロボコンに出すようなロボットを製作していました。卒業研究はスターリングエンジン冷却システムというこれまたマニアックなものを製作しまして、電気を使わずに温度をマイナスまで下げることに腐心していました。しかし、この時点で周囲にいる技術者エリートの学生には敵わないと思い始め、なぜか英語教師になる道を選び文学部に進学しました。

大学時代(人文科学に目覚める)

慶応の文学部に補欠でなんとか合格し、英語の教員免許を取るために意気揚々と慶応ボーイライフが始まったのですが、学部1年の時に衝撃が起こりました。慶応の文学部は2年次から専攻を決められるので、1年の時は色々な授業を取るようにするのが一般的です。というわけで、僕も教職以外にも人間科学特論という授業を何の気なしに取ったのですが、そこで将来の指導教官になるP先生と出会い、ソシュールの言語学というものを知ります。

シニフィアンとシニフィエ、ランガージュとラング、パロールなど面白い概念をたくさん教わり、今まで自分が「世界」だと考えていたものがガラガラと崩壊し、なんだかよくわからないけど、めっちゃ面白い!となりました。結果、英米文学科ではなく人間科学科に進学し、P先生の研究室でみっちり指導を受けました。ここでは細かい内容は省略しますが、主にゼミでは輪読を行い、読んだ本はベンヤミン、ボードリヤール、ラカン、メルロ=ポンティ、関連する邦人作家(鷲田清一など)です。ただ、今思えばどれだけ理解できていたかは非常に怪しいです・・・。

営業時代(バキバキの体育会系)

就活の時には東日本大震災が起こり、面接はほぼストップしていました。当時はそこまで就職先にこだわりもなく、やりたいこともなかったので、色々幅広く手がけている製造業の会社に入社しました(業種を書くと特定できちゃうので少し濁します)。職種も社会人といえば営業!という単純な思考回路で営業を希望し、一番人気の事業部に営業として配属されました。

僕の最初の上司はプロレスラーみたいな見た目の人で、ブカブカのズボンをはいて関西弁のドスの利いた声が特徴の方でした。よく頭をコツーンとされましたが、社内ではお祭り男で盛り上げ役として貴重な人でした。お酒もたくさん飲み(まされ)ましたね笑 3年間、体育会系の営業をみっちり叩き込まれました。

大学院時代(一念発起)

社会人3年目になると、もう少し世の中にインパクトを与えるような企画をやって見たいと思うようになってきました。これまでは80だったものを100に近づけるもしくは70にならないように工夫する仕事だったのですが、0から1をやってみたくなったのです。一度営業で入ると社内で企画職に異動するのはその会社では難しく、当時の年齢も考えて大学院でデザインの勉強をしようと一念発起します。思い切って会社を辞めて、慶応のデザインスクールへと入学し、デザイン・テクノロジー・マネジメント・ポリシーなどイノベーションに必要なスキルを学びました。中でも、デザイン思考やサービスデザイン、UXデザインなどを専門的に学び、ここでの経験が今の仕事の礎となっています。

ITメガベンチャー時代(とにかくなんでもやる!)

大学院卒業後はITメガベンチャーにAI事業の立ち上げメンバーとして入社しました。メガベンチャーといっても、本体からできたての子会社に出向したので、ほぼスタートアップのような環境です。その当時はチャットボット が流行り始めていたこともあり、僕らもチャットボット のサービスを構築して販売、その後の効果改善を行っていました。カスタマーサポート業界の新参者として、様々な逆風に晒されたり、時には大失敗をやらかしてお客さんから個室で檄詰めされることもありました。ただ、本気でCS業界にAIで風穴をあけてやろうという意気込みで団結して仕事に取り組んでいたので、辛いこともそこまで辛いと感じませんでした。思えば、企画・営業・デザインなどほとんどなんでもやっていました。

大手インハウスデザイナー時代 (サービスデザインが仕事の主軸に)
そうこうしているうちに、一度ちゃんとしたデザイン組織で働いてみたいと思うようになりました。正直なところ、自分の力量不足もあって大学院で学んだデザイン思考やサービスデザインのスキルをうまく活用できていない感じがしたからです。幸い、大手メーカーのインハウスデザイン部門へ道がひらけたので、一度思い切ってデザイン組織の一員として働いてみることにしました。

そこでは、サービスデザインを活用した顧客共創が私のミッションで、多くのお客さんとワークショップをしたり、サービスの開発を行いました。また、優秀な先輩デザイナーからデザイナーとしての作法も叩き込まれ、今までいかに自分の仕事がいい加減だったかということを思い知りました。もちろん、大学院で学んだこともきちんと活かせています。

仕事に慣れてくると、海外の案件も多く任せてもらい、グローバルという扉も開くことができました。いまではそこまで英語で仕事することに違和感はありません。

サービスデザイナーかイノベーターか
コロナになってから自問自答する時間が増え、自分がなりたいのはサービスデザイナーなのかイノベーターなのかという問いが頭の中で生まれるようになりました。答えはすでに出ており、イノベーションのためにサービスデザインを行うということでした。しかし、当時の僕はデザインが目的になっており、イノベーションが目的になっていませんでした。もちろん、サービスデザインなどデザインを専門にしている人を否定しているわけではありません。ただ、圧倒的にイノベーター、イノベーションを主導する人が世の中には足りていないという実感がありました。

どうするべきか、色々迷いましたが、僕はイノベーションを第一に考え、そのための方法は適宜選択するという道を取りました。幸運にもこれまでmultidiciplinaryなフィールドでやってきた自分だからできることがあるのではと考えたのです。

イノベーターはイノベーターの経験をすることでしかなれない
次に考えたことは、なるべく早く事業の意思決定者になるということです。今までは一担当者として与えられた案件をこなしていましたが、最終的な意思決定は僕よりも偉い人が何人もいて、そこで僕が知らないような決定がされていました。

少なくとも、自分も意思決定を下せる立場にならないと、このままではイノベーターとしての経験を積むことはできないと感じていました。なぜなら、メガベンチャー時代「社長は社長をやることでしか経験を積めない」ということを教わっていたからです。いくら優秀な営業やデザイナーでも、それはプレーヤーとしてであり、その人が優秀なリーダーかはわかりません。おそらく、リーダーはリーダーをやることでしかその経験は身につかないのではないでしょうか。残念ながら、大手には若い時からそうした決定を任せてもらえるポストは少ないので、大好きだった職場を離れて結果的に外にポジションを求めることになりました。

これから
やっと今に時間軸が戻りますが、紆余曲折あり、従業員が200人規模のエンタメ系企業でデザインストラテジストとして働くことになりました。あまり役職に強いこだわりがあるわけではないので、子会社の社長やプロダクトマネージャーなど柔軟に役目を変えていければと思っています。今の会社の社長から言われたのは「うちは自由です」ということ。自分が本当にいいと思うものを世の中に出せるように秩序を保ちながらも、自由に発想して進めていけたらと思います!





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