里子に心を馳せる
うちは里親活動をしている。
そんな中でのふとした疑問。
3歳の彼にとって
生みの親に育ててもらえないことは
事情なのだろうか?
彼の環境は決して今世の心遣いではないことは明らかである。
では、前世の心遣いのせいなのか??
彼は心を改めなければならないのだろうか?
今の天理教にはそんな考えが
流れているようにも思う。
では、こうは考えられないのだろうか??
彼は、自分の置かれた境遇が普通で無い事はもちろん、『里親制度』が一体なんなのかすら分からない。
「可哀想な子」
本当の親に育ててもらえない
当たり前が当たり前にない
そう言われるから、彼は可哀想な子になる。
「幸せな子」
あなたを心から思う人がたくさんいるのだ
親がたくさんいるんだ
そう言われるから、彼は幸せな子になる。
事情って
・他人(評価する人)から見て
・自分が他人と比較して
特殊でかわいそうな状況だと認知するから事情(悩み)になるのだと思う。
決して、事情(悩み)と認知しなければ、たとえ状況が変わらずとも、同じ状況下であろうとも、幸せなのかもしれない。
おやさまは
あなたは幸せだというリフレーミングをして、おたすけしてくださった。
人々に希望を与え、その連鎖を起こしたのかもしれない。
上下なんてなく、皆同じ価値があることを伝え、それでおいて、今置かれている立場を、不幸だとも事情だともお伝えになっていないのだ。
そう思ったときに
里親活動とは、おたすけではないのかもしれない。
ひのきしんなのだ。
親心を尽くすひのきしん。
そう考えてはいけないのだろうか??
さらに大きなことを言うと
おたすけは全てひのきしんでしかないのかもしれない。
おたすけだと思うことで、相手の方を身上事情に置かれているとこちらが認知してしまいかねない。心を改める必要のある方だと認知してしまうように思う。
そうではなく、
自分が生かされている喜びを体現するひのきしんという言葉を私は使いたいと思う。
どうだろ?ずれているかな?
違うかな??
私は彼に親心を尽くすいうひのきしんをしているのだ。