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褒められたい餅

僕は、褒めるのが苦手だ。

だから、褒めるのが上手な人を見ると、大人気なく嫉妬することがある。たとえば、イタリア人男性がそうだ。

これは僕の勝手なイメージだけれど、イタリア人男性は褒めるのがうまい気がする。呼吸するくらい自然に、誰かや何かを褒めている感じがするのだ。

残念なことに、僕は典型的な日本人だし、呼吸して自然に出てくるのは、誉め言葉ではなく二酸化炭素だけだ。

だから時々、イタリア人男性に思いを馳せながら、「あんなふうに褒めることができたらいいのになあ」と、センチメンタルな気分になることがある。

脱、センチメンタルおじさん。
そう心に誓ったのは、二、三年くらい前だったと思う。

僕もいい歳だし、イタリア人男性とまではいかなくとも、何かや誰かを自分の言葉で褒められるようになりたいと考えるようになった。そこで始めたのが、褒め練習だった。

ちょうど一カ月ほど前、自宅の近所にある蕎麦屋のおじさんを相手に練習をした。

練習といっても、相手は僕が褒め練習をしていることは知らない。ある意味、僕の極秘プロジェクトなのだ。

その蕎麦屋は、昭和の風情漂うカウンター六席ほどの小さなお店で、二度目の訪店だった。

昼の混雑する時間帯を過ぎていたこともあり、僕以外に客はいなかった。褒め練習の場としては、絶好のシチュエーションだったといえるだろう。

椅子に座ってすぐ、僕は「ざるそば」を注文して、何を褒めようかと「おじさん観察」を始めた。

沈黙を破ったのは、おじさんだった。
「お兄ちゃん、餅は好きかい?」
「はい」か「いいえ」で答えることのできる質問だったけれど、僕はこの会話をできるだけ長く続けたいと思った。きっとそこに、褒めタイミングがあるはずだと感じたからだ。

僕は、好きです、と勢いよく答えてから会話を続けようとした。でも、それはうまくいかなかった。

おじさんが興奮気味に、餅物語を語り始めたからだ。どうやら、お店で扱っている餅に思い入れがあるようだった。

結局、すっごく美味しいというおじさんの言葉に乗せられて、僕はその餅を食べることにした。というか、それしか選択肢はないように思えた。

壮大な餅物語を聞いたばかりなのに、餅を食べないと言ってしまったら、天罰が下る気がしたのだ。

僕の目の前に餅が登場したのは、食後のデザート的なタイミングだった。
「お兄ちゃん、そば猪口をちょうだい」
おじさんは、僕が使っていたそば猪口を要求してきた。

そのとき、僕は少し嫌な予感がした。
まさか、と思った。
そして、そのまさかが起こった。

おじさんは、僕が手渡したそば猪口の中に、小麦色に焼けた餅を「とぽん」と入れたのだ。

「これね、こうやって浸して食べると美味しいんだよ」
その日いちばんの、おじさんの笑顔だったように思う。僕は、その笑顔とそば猪口を交互に見ながら、言葉を失くした。

「美味しい」の対極にある画が、目の前にあったからだ。

餅がそば猪口に入りきらず、風呂にのぼせた人さながらだらしなく垂れており、三日月の形をした長ネギは、コップのフチ子さんのようにそば猪口の縁にぶら下がっていた。

美味しいのだろうか。
本当に、美味しいのだろうか。
僕は心の中で何度も呟いた。

無理をしなくていい。
ここで冒険をしなくてもいい。
もう一人の僕が、僕に囁いている気がした。
とはいえ、僕の後ろに道はなかった。
食べるしかなかった。

口の中に餅を放り込むと、そばつゆと、もち米の味がした。
想像どおりの味だった。
美味しいといえば、美味しい。
でも、最初で最後の食べ物だと感じた。

「ね、すっごく美味しいでしょう? お口に合ったかな?」
にっこりしながら、おじさんが話しかけてきた。
それは間違いなく、絶好の褒めタイミングだった。
おじさんを見つめながら、僕は思った。
こんなとき、イタリア人男性はどんなふうに褒めるんだろう、と。


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