【短篇小説】追憶
大海原に、それは突然あらわれた。
細くて長い針。
プカプカと水面に浮かんだと思ったら、深く底に沈んでいく。
自由気ままで、掴みどころがない。
そんな針だ。
彼があらわれた理由は、誰も知らない。
でも、ごく一部の人間だけが、知っているらしい。
針の誕生を心から喜んでいるからだ。
とはいえ、針、本人はまだ、自らがそうした状況にあることに気づいていない。
自分がこうしてあらわれたことを、喜ぶ人がいるだろうとは知っているけれど。
針の周りには、何もない。
あるのは、どこまでも続く海だけだ。
そこは心地よく、幸せで満たされている。
ずっと、この生活が続くだろう。
針は信じて疑わなかった。
ところがある日のこと、針はふと思い出した。
自分には、課題があったことを。
それは、映画のワンシーンのように、次々と頭のなかに浮かんだ。
子どもの頃からの夢を叶えること。
仕事ばかり優先せずに、子どもと遊ぶ時間を増やすこと。
妻を大切にすること。
家族を最優先にすること。
家族、家族……。
そうだ。
針は思い出した。
人間として生きていた頃、死ぬ間際に何を後悔したか。
無念だったのは、家族と過ごす時間が少なかったことだった。
次に生まれかわるときには、家族と過ごす時間を大切にしたい。
どんなに何かに忙しくとも、家族を最優先にしたい。
心地よくて柔らかい風が、針に向かって吹いた。
懐かしくて、とても気持ちがいい。
針が、そう感じた瞬間、誰かの声やリズミカルで楽しい音楽が聞こえてきた。
どくんという衝撃とともに、美味しい食べ物が体中を駆け巡っていく。
針はそれを感じながら、今ここを味わった。
見たことのない細い線があらわれた。
それもまた、突然のことだった。
線は「糸」だと名乗った。
初めて会ったのに、どこかで会った感じがする。
油断している隙に、糸はすぐ隣まで近づいてきた。
「やっと会えたね」
糸が言う。
「ぼくのこと、知ってるの?」
針がこたえると、糸は、くしゃっと笑って言った。
「ぼくは、君の夢を叶えるために来たんだよ。信じられないだろうけど」
「うん、信じられないよ」
何が起きているのか、針は、わからなかった。
そもそも、気持ちが悪かった。
急に糸があらわれて、くしゃっと笑い、夢を叶えるために来たと言うなんて。
そんな奇妙な話、聞いたこともない。
針は顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら糸に言った。
「わけわかんないんだよ、帰ってくれよ!」
顔に飛んだ飛沫を拭うと、糸は続けた。
「気持ちはわかる。でも、どうしても伝えたいことがあるんだ」
射るような視線で糸が言うと、針は黙った。
その迫力が怖かったのだ。
「君はもうすぐ、人間として生まれかわる。いいかい? 生まれるってことはね、大海原に浮かぶ針の穴に、糸が通るくらいの確率なんだ。『生まれたい』と思っても、それが叶わない人のほうが多い。
だから、どうか命を大切にしてほしい。
そして、生まれたあと、思い出してほしい。なぜ、人として生まれたかったのか、を」
次の瞬間、針の頭にある穴に糸がスッと通った。
「あっ」
針は全身が温かくなり、意識がもうろうとした。
穴を通ったはずの糸は、すでに影も形もない。
でも、声だけ聞こえてきた。
「人間として生まれたら、これまで起きたことはすべて忘れるようになってる。でもだからこそ、必ず思い出してほしい。何を体験したくて、人として生まれたのかを」
目が覚めて、驚いた。
その部屋には、すべてが揃っていたからだ。
彼はぐるりとあたりを見回して、大はしゃぎしたい衝動にかられた。
毎日ご飯が食べられて、好きなときに寝られる。
音楽が流れてきたときは踊り、たまに話しかけてくる声と遊ぶのが楽しかった。
でも、ここにいられるのは、あともう少しだろう。
それは、誰かに言われたわけじゃない。
なんとなく感覚でわかるのだ。
そして今日、こんな声が聞こえた。
「早く出ておいで、待ってるよ」
どこかで聞いた、やさしくて、あたたかな声だった。
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