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文豪の湯と、帰路の指揮者

 芥川龍之介をはじめ、多くの文豪が愛した湯河原。

 その文学の香り漂う温泉地へ、僕は創作の糸口を求めて旅立った。そう、まるで小説の書き出しのような文章で始まったこの旅。  

 だが現実は、甘くはなかった。

 駅のホームで湯河原行きの電車を待つ。グリーン車という小さな贅沢に、背筋がピンと伸びる。

「よし、これで文豪気分だ」と意気込んだのも束の間、その乗り方がわからず慌てふためく。

「芥川先生、助けてください」と心の中で叫びながら、必死でスマホを操作。乗車マニュアルを検索する姿は、まるで締め切り間際の駆け出し作家のようだった。

 文豪になる前に、まずは一般乗客としての資質が問われてしまったのだ。

 やっとの思いでグリーン車に乗り込むと、隣の席のサラリーマンが慣れた手つきでパソコンを広げ始めた。

「ああ、逃れられぬ日常よ」と、思わず芝居がかった独白が漏れる。彼が不審な目で僕を見たのは、言うまでもない。

 旅館に到着し、夕食時を迎える。目の前に広がる色とりどりの料理。「インスタ映えする!」と思わずスマホを構える自分に苦笑。文豪なら、こんな俗っぽいことはしないだろう。

 箸を進めながら、ふと「ウニが食べたかったな」という願望が頭をよぎる。そして、もう一つの気づき。

「こんな素敵な場所、誰かと来たかった」

 一人旅の意義を自問自答し、思わずにやけてしまう。皮肉なものだ。孤独を求めて来たはずが、結局は誰かを求めている。

 芥川先生、あなたもこんな気持ちになったことがあるのでしょうか。それとも、そんな俗世の想いとは無縁だったのでしょうか。

 翌朝、早朝5時。風呂に入っていないことを思い出し、大慌てで大浴場へ向かう。誰もいない湯船に浸かり、至福の表情を浮かべた瞬間、水面に浮かぶ数匹の蚊を発見。静かな戦いが始まった。

 ここでまさか、蚊の格闘シーンが繰り広げられるとは。僕は波を起こしては避け、またじっとし、の繰り返し。まるで不器用な忍者のような動きに、思わず苦笑がこぼれる。

 ふと、芥川龍之介ならこの状況をどう描くだろうかと考える。「『蚊』という漢字一文字で、この状況を表現してみせるかもしれない」などと、くだらない妄想に耽る。

 結局、ゆっくりできるはずが、早々に湯から上がることに。

 タオルで体を拭きながら、「結局、僕は自分の小説が全然書き進められていなかったんだ。蚊との戦いですら、文学的にできなかった」と自嘲気味に肩をすくめる。

 文豪の足跡どころか、蚊の足跡を追いかけていただけのような気がした。


 チェックアウト後、帰路のタクシーで思いがけない光景に出会う。運転手の手の動きが、まるでオーケストラの指揮者のようだったのだ。

 細やかで優雅な動き。その意味はわからないが、不思議と心地よい。

「人生という交響曲の一場面か」などと、旅の終わりにふさわしい大仰な感想を抱いてみた。ふだん、そんなことは考えないのに、一人旅マジックにかかったのだろう。

「人生という交響曲の一場面か」なんて、いつもの僕なら恥ずかしくて口にも出せない。

 電車の中、窓の外を流れる景色を眺めながら、この短い旅を振り返る。文豪の足跡を追いかけたはずが、結局は自分自身と向き合う旅となった。

 蚊と格闘し、一人食事を楽しみ、奇妙なタクシー運転手に出会い……。

 これが僕の「文豪の湯」体験か。

 芥川先生なら、きっと鋭い洞察と皮肉を込めて描くのだろう。でも僕には、ただの珍道中にしか思えない。

 それでも、この体験が何かの糧になることを願いつつ、僕はふたたび東京の喧騒へと身を投じるのだった。

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