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ポリコレ・キャンセルカルチャーに関する論考3本を読む(2023春)

ポリティカルコレクトネス(「政治的正しさ」)やキャンセルカルチャーを巡る議論が、世界的に活発です。

2023年3月の法学セミナー「差別問題のいま」特集の論考では、新井誠・広島大教授「ルッキズムと憲法学」、森悠一郎・北海道大准教授「ポリティカル・コレクトネスの意義と限界」が特に目を引きました。
また、2022年12月には成原慧・九州大准教授「キャンセルカルチャーと表現の自由」(法政研究89巻3号)が発表され、こちらも注目されます。

以下、法学者による論文3本のご紹介と雑感を述べていきます。

新井誠「ルッキズムと憲法学」法セ818号24頁

紹介

以前、外貌醜状痕の補償基準に男女差があったこと(現在は解消)について違憲の論陣を張った新井誠教授が、ルッキズム(外見に基づく差別)に対する司法救済の余地を論じたものです。

メインテーマは「雇用における外見差別」の問題です。差別禁止法を制定する諸外国でも、主観的評価に基づく外見の良し悪しをもって差別的取扱いとすることは容易でないとされています。一方で、新井氏は、性別や障がいの有無による差別禁止ではなく、「外見の『魅力のなさ』を理由とした雇用差別」を独自に問題とすることが可能か、問うていきます。
新井氏は、「差異取扱い」を維持する理由が、一定の社会的偏見に基づくものと評価されれば「不合理な差別」と考えられるとし、区別の目的とは関係ないところで過度に主観的評価が入り込んでくる場合(たとえば、職務の遂行能力とは無関係な基準が過度に採用される場合)、その差別に基づく選択は必ずしも合理化できない、と論じます。
もっとも、新井氏は、主観的判断で外見の魅力を評価することが「差別指標」であると認定さえすればよいという考えにも疑問を投げかけ、ポリティカルコレクトネスへの傾倒に釘を刺します。「私生活上の自由に対し、あらゆる角度から公共的正しさの視点を取り入れ、各自の私生活内における各人の好みに基づく判断を一律に差別的な偏見であるとして許容されないものと断罪するだけでは、憲法が目指す自由と平等のバランスがかえってうまくいかない場合もあるように感じられる」とするのです。

雑感

ルッキズムは差別であるとの言説がSNSで先鋭化する一方、同じくSNSを通じて、外見を気にする傾向も強まっています。我々が「外見至上主義的価値のなかに身を置く時代になっている」との新井氏の認識には頷けます。
そして「外見の魅力を語ること自体が断罪される差別行為なのではなく、外見を過度に重視することによって生じる弊害に反応し、それらの区別をしっかりと見極めながら、法的救済へとつながる論理を提供」することが憲法学の一つの方向性とする結論には、説得力があります。

森悠一郎「ポリティカル・コレクトネスの意義と限界」法セ818号36頁

紹介

森氏は、ポリティカル・コレクトネス(PC)には特定の属性を持つ個人へのステレオタイプなど、個人の尊厳への蹂躙や自律の阻害を伴うような表現を抑制する利点があり、法的処罰やキャンセルカルチャー(CC)のような強権的手法を伴わない範囲では、一定の規範的意義があることは否定できないとします。もっとも、PCの問題はむしろ、「侮蔑・ステレオタイプ的表現のうちで社会的な表現のうちで抑制・社会的非難の対象とされるものの選択が恣意性を孕む点に存する」とします。
森氏は、「インディアン・ギバー」(PCによる抑制の対象となる)、「おやじギャグ」(抑制の対象にならない)、「ハゲ=頭髪の薄い人々」(被差別マイノリティとは一般にみなされない)を取り上げながら、「差別からの保護における差別」という、現在のPCの問題点を論じます。
PC擁護でよく持ち出される「文脈の違い」についても、いわゆる「ブラック・フェイス」が問題になる事例とならない事例の差異に、確たる根拠はあるのだろうかと疑問を提示します。
さらに、PCの保護対象とされている人が、そうでない人と比べて政治的・経済的に無力であるという論拠も決定的ではなく、オタク・引きこもり・小児性愛者・インセルなど社会的に被差別対象と公認されていない人々も、また社会から排除されがちであると論じます。

雑感

森論考は、PCの意義を認めつつ、その保護対象の恣意性に着目して論じており、興味深いものでした。CCへの評価は明言されていませんが、成原論考と比較して否定的なスタンスのように読めます。
なお、森氏は、「統計的差別と個人の尊重」立教法学100号215頁(2019年)を発表しています(オンラインで読めます)。プロファイリングや女性専用車両といった現に実践されている統計的差別を取り上げて反道徳性を考察するもので、PCやアファーマティブアクションを考える上で示唆が得られます。

成原慧「キャンセルカルチャーと表現の自由」法政研究89巻3号167頁

紹介

こちらはWebで読めます
上記森論考は、ポリティカル・コレクトネス(PC)を論じたものでしたが、成原慧・九州大准教授は「キャンセル」行為、キャンセルカルチャー(CC)について、法的な観点から論じています。

論考の分析対象は多岐にわたりますが、とくに以下の点が注目されます。
① PCに反する言動をした人物への(SNS管理者や職場等による)キャンセル行為と、(第三者が)キャンセルを呼びかける行為を区別し、後者についてはそれも「表現の自由」の一側面であるとする。
② 日本におけるキャンセル呼びかけの先例として、光市母子殺害事件弁護団に対する橋下徹弁護士(元大阪府知事)の懲戒請求呼びかけ事件(最判平成23年7月15日民集65巻5号2362頁)を紹介。橋下氏に不法行為は成立しないとした最高裁判決、須藤補足意見を「絶妙な判断を示した」と評価する。
③ オンラインハラスメント罪など、炎上を発生させる行為への刑事規制については消極的。
文化施設、集会場、SNS運営者など「キャンセル行為」が実行可能な者は安易に表現の撤回に応じるべきではない。一方において批判者との説明や対話を行うべきである、とする
⑤ 「キャンセル呼びかけ」についてはそれが脅迫や名誉毀損等の違法行為でない限りは原則としてそれも表現の自由であり、法的な規制よりは、倫理や文化に委ねられる面が大きい、とする。

雑感

成原論考は、判例や表現の自由に目配せした穏当な意見と思います。
もっとも平成23年最判については、橋下氏が上記呼びかけで弁護士会の懲戒処分は受けていること、その後12年間の社会状況の変化等を踏まえたとき、射程範囲には疑問も残ります。
また、成原論考が懸念を示す「批判」と「排除(キャンセル)」の区別については、それと同等以上に微妙な言葉や文脈の違法性判断を裁判所が日常的に行っている現状もあり(似たような表現でも裁判官による判断のバラツキが相当に生じています。)、炎上形成行為や排除の煽動だけ判断困難と扱うことはできない気がします。

最後に

キャンセルカルチャー(CC)の源流であるポリティカル・コレクトネス(PC)には相応の意義があり、今後、(新井論考が取り上げたルッキズム等に対する)PC観点での司法救済が広がる可能性はあるでしょう。
一方で、CCについては、(成原氏も指摘するように)法の支配の軽視や「個人の尊重」に反する面があります。CCがより拡大すれば、CCに基づく特定個人への排除(煽動)に対する司法介入も広がるように思います。

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