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簒奪者の守りびと 最終章 【1,2】

最終章は10シークエンス構成です。5日連続更新。
<3,600文字・目安時間:7分>

簒奪者の守りびと
最終章 帰還

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【1】

 その交差点に立つヴィクトル一世像は、なにひとつ変わっていなかった。即位と同時に像を取り換えさせるような趣味をクリスチアン三世が持ち合わせていなかったことに、ラドゥはいささかの好感を抱いた。アウディのリアウィンドウから見た史上最大の交通事故からどれくらい経っただろうか、と記憶を呼び起こす。あのときの残骸などとうに残っていないが、その代わりに、いまは中央軍の放棄車両が道を塞いでいる。ミハイ軍は戦闘の末、この交差点を陥した。王宮はもう手の届く位置だ。
 王都に入ってからミハイ軍の進軍は鈍っていた。中央軍は無数の陣地を敷いて抵抗している。ひとつひとつの拠点は脅威ではないが、無視するわけにもいかず、薄皮を剥ぐように戦力が削られてゆく。それでいてこちらが攻勢に出ると、陣に執着することなく撤退してしまうのだ。一般市民の被害を抑えられるという意味では歓迎できるが、打撃を与えた実感がないまま王宮の姿を大きくするのは、気味の悪いものだった。
「ひとつ、寄り道をしたい」
 ミハイがそう言ったとき、誰も異論を唱えなかった。マリア記念病院のあるブロックを、前日の戦闘で支配下に置いていたからだ。
 父子の対面に、ラドゥは立ち会わないことにした。普通の親子であったとしても憚るべきに違いないが、アルセニエの子孫同士ならばなおさらだろう。ただ、両者に会話が交わされないことだけはわかっている。パウル一世にもはや自我はなく、思考する能力がなかったからだ。まぶたが糸のように薄く開いているのは、なにかを映すためではなく、閉じるに必要なだけの肉がなくなったからに過ぎない。ミハイはその瞳になにを語りかけるのか。
 街が夕刻の色合いを帯びはじめる。この頃合いになるとラドゥの脳裏に、数日前のアレクサンドロヴカでの映像が蘇る。あのトラックがエンジンを始動させたのはちょうどこの時間帯だった。荷台に、ゾフとリャンカの遺体収容バッグを積んだそれは、なかなか動き出さなかった。ラドゥは思いたかった。後部の異常に気づいた運転手が発進を躊躇っているのではないかと。実は生者が混じっていて、彼らが助けを求めていることを、聡明な誰かが察したのではないかと。次の瞬間には、ふたりが荷台から飛び降りてくるのだと。
 だが、トラックの去り際に劇的なことは何も起こらず、単にいくつもの遺体を乗せたトラックが、埋葬地に向けて出発しただけだった。アレクサンドロヴカの近代的なビルが、傾き始めた太陽をプリズムのように反射させていて、ラドゥは目を伏せるしかなかった。

「ここからは部隊を分けたほうが良いでしょう」
 臨時指揮所で、ブルンザ中佐がミハイに提案する。脱臼した右腕を三角巾で吊っているが、彼女の口調はいつもと変わらない。
「別働隊を組織するのか?」
「というよりも、本隊を三つに分けます。王宮は丘の上にありますのでね」
 王宮へ寄せるためには、丘を回り込まなければならない。当然ながら左右から呼吸を合わせて進む必要がある。残る一隊は、丘の正面に陣取って敵の攻勢に備える。
「そうなると、それぞれ指揮官が必要だが」
「右翼は私が。それに、左翼の適任者には心当たりが」
 ミハイと中佐は頷きあう。
「それについては私も同じ考えだと思う」
「アレクサンドロヴカでの戦いぶりは見事でした。兵士たちも納得するでしょう」
 中佐が部下に目配せをすると、彼らは一斉にラドゥに対して敬礼をした。
「そういうことだ。ラドゥ、頼むぞ」
「いや、ちょっとお待ちを」
「なにか不都合でもあるか?」
「大ありです。私は今は軍人でありません。部隊の指揮など……」
「それを言うなら、私だって軍人ではないさ」
 ミハイは悪戯そうに微笑んだ。
「それはどういう……」
「聞いたままの意味だ」
 ラドゥの眉間が狭くなる。
「ミハイ、まさか指揮を執るつもりで?」
「本軍は私が指揮する。なにかおかしいか?」
「……危ないでしょう」
 絶句のあと口をついて出た言葉は、ラドゥ自身にとっても意外なものだった。ミハイが大口を開けて笑うのを、彼は赤面しながら眺めた。
「勇者アルセニエはバラウルという強敵と戦い、破った。あの王宮は勇者の家であり、バラウルの墓所だ。そこに帰ろうというのに、クリスチアンごときから身を隠していては、礼を欠くことになると思ってな」
「しかしですね」
「ラドゥよ。私は家に帰る」
 ジョンブリアンの下には微笑みがある。
「もう少しだけつきあってくれ」
 ラドゥは戸惑った。少年に叩かれた背中が、奇妙に熱を持っていたからだ。

【2】

 理想と実態は乖離するのが常とはいえ、中央軍として組織された当時と、今の軍の姿はあまりにもかけ離れていた。半数はティラスポリスで武装解除され、もう半数はスミルノフの反撃に備えてドニエ川から動けない。王都防衛のために残った戦力はわずかだった。市街戦を避けることで戦力を温存したクリスチアン三世の判断は、現状においては正しいと言えた。
 いま王の手元には三つの戦力がある。中央軍の残兵と、故郷から呼び寄せたドロキアの部隊、そして近衛兵だ。もっとも数が充実しているのはドロキアの部隊だが、彼らは弱兵として知られている。中央軍は精鋭だが戦力として薄い。近衛兵は全土から集められた有能な兵卒だが、実戦経験がなく、すべては指揮官の質にかかっていた。
「いよいよ出番だな」
 若き王は、断られるのを承知で年長者にウィスキーを勧めた。モスグリーンの長髪がわずかに左右に揺れる。
「歴史上、実戦を指揮する儀仗長は卿がはじめてということになる。感慨はあるか?」
「聖域たる王宮に、敵一兵たりとも近づけぬ覚悟です」
 バラン儀仗長は左胸に手を当てた。
「卿の忠誠を疑ってはない。が、卿にミハイが討てるとは思っていない」
 微動だにせず、若い王の言葉を聞き流す。
「近衛部隊はミハイと直接戦わなくて良い場所に配置する。これは温情だぞ」
「どこに部署されましても、王宮を全力で守ることに変わりありません」
 クリスチアン三世は近衛兵を南の守備にあたらせた。バラ園と離宮があり、庭園設備が点在しているエリアだ。バラン儀仗長は離宮の一階に司令部を立ち上げ、近衛部隊の配置を決めていった。

 王宮は丘の上にある。自然、ミハイ軍将兵はそれを仰ぎ見るかたちになる。
 丘を回り込むなだらかな登坂路が両側にあり、右の道をブルンザ中佐の部隊が、左の道をラドゥの部隊がそれぞれ担い、攻めることとなった。
 丘の下、王宮の正面にはミハイ本軍が陣を張っている。攻めているときは動かす必要はないが、敵が丘を下ってきたときはこれを迎え撃つことになる。もし本軍が破れれば、右翼も左翼も丘の上で孤立するだろう。クリスチアンは各個撃破するだけで、治世を盤石のものにできる。
「なに緊張してんの?」
「そう見えるか?」
 陽の落ちた競技場。その外壁を背にして、エマはトパラ村から連れてきた鹿毛馬を撫でていた。競技場の外周が公園になっており、平時は市民の憩いの場として機能しているが、いまは軍がキャンプを張っている。軍人ばかりの景色のなかで、ランニングという日課をこなそうとする一般人の姿も見える。
「まぁ、緊張するのも無理はないね。わかるわかる」
「わかるのか」
「だって、ラドゥも中佐も別部隊に行っていなくなっちゃったもんね。守られることに慣れてるお坊ちゃんは、これほどの大部隊に囲まれていても不安が消えないんだ」
「そんなことはないぞ」
 ミハイは口を尖らせた。
「じゃあなんでここに来たのよ」
「……馬に乗りたいと思ったから」
 エマはわざと目を細めた。
「へぇ……馬にね」
「その馬の名はなんと?」
「さぁね。関心があったなら、トパラ村で知ろうとしてたんじゃない?」
 エマは馬体を回り込んで反対側へ移動した。ミハイからは彼女の足しか見えなくなった。
「……わかったよ。認める。馬は口実だ」
 馬の背を、エマの手が行きつ戻りつしている。
「君に会いに来た」
 手が止まって、消えた。
「不安でたまらないんだ。君の言う通りだ」
 鹿毛馬が鼻を鳴らした。尾は不規則に揺れている。彼らの影を伸ばす公園の街灯が、馬の腹の下で、エマのブーツが行き来したことも写していたが、それはミハイには見えなかった。
「……乗る?」
「うん、乗る」
 街路樹の間から、象牙色の王宮がよく見えた。戦時でありながらライトアップを絶やさないのは、クリスチアンのプライドに違いなかった。夜明けとともにそこは戦場となる。王宮がどちらを主人と選ぶのか、答えはもうすぐ出る。
「落ちないでよ」
「落ちないさ」
 ふたつの背中を乗せた馬が駆けるのを、競技場の兵士の多くが目撃していたが、みな気付かないふりをした。

つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!

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