見出し画像

簒奪者の守りびと 第九章 【5,6】

第九章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<4,500文字・目安時間:9分>

簒奪者の守りびと
第九章 再会

前頁総合目次次頁

【5】

 機材を弾きとばしながらデスクの上を滑り、兵士は背中から落下した。これで三人目だ。たったひとりを相手にこれほど苦戦するとは、ブルンザ中佐は思っていなかった。またひとり、足を払われたのか、デスクの向こう側に姿が沈む。直後の呻き声は戦力がひとつ減ったことを意味していた。
 影が動いている。味方のひとりが発砲するが命中しない。逆襲の銃弾がボディアーマーに着弾する。推定できる身体の大きさからは考えられないほど動きが素早い。
 ブルンザ隊が二階に足を踏み入れたときから、ビルの照明は落ちていた。非常用照明すらその役割を放棄し、ほとんどの空間が闇の支配を許している。何台かのラップトップがバッテリー駆動に切り替わり、ディスプレイのバックライトで周囲を照らしているが、フロアの広さを考えれば弱々しいものだった。
 ブルンザ中佐はハンドサインで慎重に指示を出す。自らは小銃を捨て、拳銃を握ることにした。ふたりの部下が奥から回り込む。やや離れた位置からもうひとりが動きを見張る。
 物音がした。紙のこすれる音だ。敵がなんらかの書類に触れたのだろうか。
 彼女は銃を構え、ゆっくりと位置を変えてゆく。ひとつ向こう側のデスク。このパーテーションの裏側だ。相手は近接戦闘を得意とする。触れられるよりさきに撃たなければならない。ブルンザ中佐は、まばたきも呼吸も止めて身体をずらしていった。
 誰もいなかった。ただ、USBタイプの卓上扇風機が、パーテーションに向かって静かに風を送っていた。壁面に貼られたいくつかのメモがはためいている。ブルンザ中佐が心のなかで舌打ちをしたとき、向こうで部下が空中を舞った。
 来る。
 直感がそう告げている。いや、すでに来ている。中佐が反射的に引き金を絞ると、マズルフラッシュが一瞬だけ視覚情報を与えた。それは彼女が賭けに負けたことを教えていた。
 右側面から肩口を掴まれる。次の瞬間には天地が逆転していたが、闇のなかではそれすらわからない。中佐は回転しながら軸方向に一発撃ったが、その成果を確認することなく、叩きつけられて意識を失った。
 昏倒したブルンザ中佐を顧みることなく、ステファン・ゾフは次の目標に向けて移動を始めている。

 オープンスペース構造の二階には珍しく、そこはパーテーションで区分けされ、独立したオフィス空間になっていた。奥にはもう一部屋あるのだろう。そのドアの上部には「警備司令センター」というサインと、せわしなく回る赤色回転灯がある。その赤い光のおかげで視覚を確保できているのは、皮肉なことかもしれない。
「うわさの警護班長殿にお会いできて光栄だ」
 回転灯を背景に、ラドゥよりも上背のある男が立っていた。
「それは古い肩書だ」
「しかしあなたは守り通してきた。楽な任務ではなかったはず」
 バラクラバ越しの大尉の目は、影になっていてよく見えない。
「それは認める。楽なもんか」
「我々の部隊は全滅寸前だ。この窮地をもあなたは切り抜けようとしている」
「そうさせてくれるなら、ありがたいね」
 大尉は首を振る。
「特殊急襲部隊と特殊警護班。その指揮官同士、決着をつけよう」
 ラドゥの足元に、一本のタクティカルナイフが滑ってくる。視線を戻すと、大尉は装備品を外し、銃も捨てていた。
「あなたの銃弾が尽きていることはわかっている。せっかくだから私の流儀に付き合ってもらいたい」
 大尉は腰を落とし、右手でナイフを構える。ラドゥも同じように右で握った。回転灯が暗闇を洗っている。反応速度をあげるため、両腕をなめらかに動かしたまま近づいてゆく。先に動いたのは大尉のほうだった。突き出されたそれをラドゥが刃の側面で受け流す。その腕を狙うが大尉が引くほうが早かった。空振りしたラドゥの腕にふたたび切っ先が迫る。ラドゥは一歩下がって距離を持った。だが大尉はさらに大きく詰めた。踏み込みと同時に突き出される刃。刺されば肺に届いてしまう。ラドゥは身体をひねって躱した。胸元の生地が音もなく裂ける。ラドゥはそのまま右腕を振り、遠心力を加えながら大尉の首を狙った。大尉は左腕でそれを防ぎつつ、さらに次の手を繰り出す。その先端はラドゥの左目を狙っている。紙一重で回避したが、耳が上下に割れた。しかし体術の間合いになった。ラドゥは両腕で大尉の右腕を掴むと、肩に乗せ、渾身の力で放り投げた。大尉はデスクを乗り越えて反対側へ落ちる。回転灯の赤い波が両者を撫でている。
「理屈ではないな」
 首を鳴らしながら、大尉は立ち上がる。
「守るべき者を持つ人間の強さだ」
 ゆっくりとデスクを回り込んでラドゥの正面に立つと、大尉はふたたび構えた。ナイフを逆手に持っている。うかつに体術の間合いに入れば、刺突の餌食になるだろう。
 金属の擦過音とふたりの息づかいに、ときおり衣類の裂ける音が混じる。ラドゥの前腕には次第に傷が増え、腕を繰るたびに赤黒い水滴が飛んだ。あきらかに大尉のナイフのほうが多くの血を吸っている。
 順手に持ちかえ、大尉が強く踏み込んできた。先端は狂いなくラドゥの心臓に向かっている。ここで引いてはいけないことはわかっている。ラドゥは大尉の足元に飛び込むように前転で躱した。すれ違い、互いが背後に出る。大尉のナイフは空を切ったが、ラドゥのそれは大尉の太腿を抉っていた。

【6】

 今度はラドゥがナイフを逆手で持った。刃の側面で攻撃を受け流してゆく。
 大尉のナイフ捌きは衰えなかった。だが、上半身への依存が大きくなっていることは間違いない。ラドゥは距離を巧みに調整しながら、大尉の脚に負担を強いる戦い方をした。
 回転灯がつくりだす赤と闇と交代劇のなかで、二本のナイフが接しては離れる。滴る血が増えてゆく。大尉の切っ先がラドゥの腹部にめり込む。ラドゥは左手でその腕を掴み、これ以上押し込まれないように力を込めた。しかし大尉は体重を乗せてくる。ラドゥは右手のナイフを振りかざし、大尉の肩に突き立てようと試みる。が、大尉の左手がそれをおさえた。両腕の力比べ。血液まじりの汗が滴る。しかし拮抗していたのはそれほど長い時間ではなかった。腿からの流血は、大尉の体力を奪っていたのだ。
 ラドゥは右腕の刃に体重を乗せてゆく。先端が鎖骨の下から大尉の体内に侵入する。片腕だけでは支えきれず、大尉は自分のナイフを捨てることで防御に集中しようとしたが、それによって自由になる腕の数はラドゥも同じだった。
 ハンドルの尻に左手を重ね、全力で押し込む。タクティカルナイフはゆっくりと持ち主の身体に還っていった。噛み締めたままの奥歯から呻きが漏れる。傷ついた鎖骨下動脈が、抗議を発するように血液を溢れさせた。大尉は沈むようにデスクの上に横たわり、滑るようにして床に転がった。
 油断すればラドゥも倒れそうだった。デスクに肘をかけて、なんとか体裁を保つ。呼吸はまだ整いそうにない。
「……私は王をお守りする役目だ」
 血の泡を飛ばしながら、大尉がつぶやく。
「喜んで死地に赴こう……それが王命ならば」
「……そうか」
 吐息まじりに、ラドゥは返した。
「だが兵たちを喜んで死なせるわけがない。ましてや小娘の命令で。私はあなたに……謝らなければならない」
「なにを」
「あなたの部下を死なせた」
 大尉は天井を見つめたままだ。もう見えていないのかもしれない。
「奥の部屋に……」
 この先には警備司令センターがあるだけだ。
 ラドゥは立ち上がった。動かなくなった大尉を見下ろし、デスクに体重を預けながら進んでゆく。触れた箇所が黒く染まる。赤い照明の下では、血液は黒にしか見えないからだ。
 警備司令センターの入り口はロックされていなかった。タッチパネルに触れ、ドアを横にスライドさせる。いくつものモニター群が彼を迎えた。最も奥にあるメインスクリーンには、ビル外部の映像が四分割表示されている。そのいずれにもミハイ軍の兵士たちが映っていた。すでにビルは味方によって包囲されている。
 ラドゥは無意識のうちに胸を撫で下ろし、ため息とともに視線を下げた。デスクの向こう側にタクティカルブーツが転がっている。特殊部隊員のものにしてはサイズが小さく思えた。理由もわからないまま鳥肌が全身を覆う。ブーツだけではない。人間が倒れているのだ。一歩づつ近づく。脚部から、腰、胴体、と徐々に姿が見えてくる。
「嘘だろ……」
 その先には浅緋色の髪があった。
「おい……おい!」
 横倒しから、彼女の姿勢を仰向けに戻す。
「しっかりしろ。リャンカ」
 胸元の銃創。ラドゥの両手は再び血に濡れた。
「……やぁ、班長……ひどいじゃん」
 唇と鼻腔から、赤黒い筋が頬をつたっている。
「……あたしが近接戦闘……苦手なの知ってるくせに。全力攻めなんて」
「しゃべるな。医療班を呼んでやる」
「……タランとカーラを頼むよ」
「なんだって?」
「……守るのは……得意でしょ……班長」
「おい! 待て!」
 リャンカの頬を叩く。暖かく、柔らかい。だがラドゥにはわかっていた。もう彼女が戻ってくることはない。拳が、無意識のうちに床を殴っていた。
「猫ですよ」
 不意にかけられた声に、聞き覚えがある。
「タランとカーラは、猫のことです。班長」
 振り返ると、入り口のあたりにゾフが立っていた。黒づくめのアサルトスーツは他の敵兵士たちと変わらない。だが彼は武器を持たずにそこにいた。両方の拳を握りしめ、足を開いている。まるでそうしなければ、立っていられないとでもいうように。
「リャンカはおばあちゃん子なんです。小さい頃から両親は多忙で、ほとんど相手してくれなかったようで。ボイノバのおばあちゃんの家で過ごすことが多かったそうです。家庭の味といえば、おばあちゃんの手料理のことなんだと、よく言ってました。タランとカーラというのは実家で飼ってる猫の名前です。班長、知らなかったですか。俺たちがティラスポリスにいる間も、猫のことをずいぶん心配してたんですよ。おばあちゃんの体調が優れないので、世話が行き届いてないと。だから最近は、毎週のように帰省して……リャンカは……」
 ゾフがこれほど饒舌になるのは、一体いつぶりだろうと、ラドゥは思った。同時に、彼の両眼から流れ落ちるものを見たのは初めてだと気づいた。
「すいません……班長。こうなることは望んでなかった」
「わかっている……ゾフ」
「……すいません」
 ドアの向こうでなにかが動いた気がした。ラドゥの位置からはゾフの股ごしにオフィスが見える。床に横たわっているのは大尉だ。動くとすればそれしかない。ラドゥの表情の変化をゾフが察し、彼はすぐに振り返った。
 大尉が震える手で、グレネードの安全ピンを抜いていた。ゾフは躊躇わずに飛びかかり、大尉と身体を重ねた。
「ゾフ! よせ!」
 転がり落ちたグレネードが警備司令センターへ近づいてゆく。ゾフは手を伸ばしてそれを掴むと、自身と大尉の身体の隙間に差し込んだ。
「ゾフ!」
 最後の瞬間にゾフがどんな表情をしていたのか、ラドゥにはわからない。

つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!

電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)