情報「空間」の可能性について

「暇と退屈の倫理学」を読んでいて、定住革命というものから退屈の起源を説明する議論があった。これは、もともと遊動的、つまり様々な土地を移動しながら狩猟採集をして生活していたところから、気候、環境の変化などの理由から定住を強いられ、その結果新しい場所へ移動し、そこに慣れることを繰り返すという日常的な刺激が失われ、人々は退屈するようになった、ということである。農業などの生産システムの革命は定住革命の結果生まれたという説明だった。そして貯蔵が可能になった結果、もちろん国家や経済システムなども続いて現れる。

同じ環境の中で同じ仕組みの生活サイクルを回すことになるから、日常生活に刺激を欲するようになる。日常使う道具を装飾するなどという文化が生まれてくる。

定住しているので、そうした文化はその場所で育まれ、次第に固有の特徴を備えるようになるだろう。そしてそれは、交易などが始まれば一つの価値になり、またそこの人々の誇りになる。これはナショナリズム的な意識の芽生えと捉えることができるだろう。

ここで起きている事は、人間という集団の規模がまだ小さかったために、移動しながら自由に流動的に資源を使い、刺激をうけていた状態から、定住したために、新たな、文化という未開の地平の上を探索して刺激を受けることになっていったということだろう。そして、こうしたことは、次元を変えながら何度も繰り返されているように思える。

定住することで移動の刺激がなくなり、文化の地平で自由に刺激を追い求めるようになった。そしてその結果それぞれの場所に固有の価値が生まれる。

しかし、その後固定されてしまった文化に刺激が得られなくなれば、その経済的な価値も上がらなくなり、今度は違う場所に出て行って異なった文化の価値を手に入れようとすることになる。これは交易によってもたらされる。

そしてまたそういった価値の移動により国際的な文化の標準、というようなもの、現在の比較的リベラルな欧米的な価値観、というようなもの、が出てくれば、またそれには飽きて(もちろん他の様々な問題も起きている)、再度ナショナリズム的な価値観に戻る傾向が生まれる。それがトランプ政権であり、イギリスのEU離脱であるだろう。この辺りは「アフターリベラル」を読んで感じた事と平行する。

また、さらにはサスティナブルという概念も、自由な資源の利用が飽和してきたために、地球規模でナショナリスティックな価値観を生み、その中から再び新たな地平を探しに出る必要がないようにすることを目的にしたアイデアだろう。逆に言えば、宇宙開発などはそこから出て新たな自由な資源の地平を手にするための試みだし、以前書いた海上都市や深海都市などについてもそうだろう。

ここでこうした自由な地平でのリベラルな資源の使用から、限られた範囲でのナショナリスティックな固有化、そしてそこからまた逆に行く際に、たびたび飽きる、という言い方をしてしまったが、これに関してはその範囲内での資源や利益が出尽くしてきてしまった結果なのである。

そして、ここからが考えた事であるが、最初の方で言っていた、文化的価値と退屈の繰り返しについてである。

ネット空間というものがある。そして、今の主流なネット空間は、ブラウザー上にかなり並列に、つまり平等でリベラル風に、情報が並べられ、そこからサイトに飛ぶという形になっている。

しかし、これではそれぞれのサイトの情報の価値というのは表れにくい。

そこから脱するために、今のところ並べられる順番によってそれは表現される仕組みになっているのを、デジタルな平面に視覚的な表現によってサイトをならべるような形にするブラウザーを作ることが有効なのではないか。丁度miroのホワイトボードのように、拡大縮小も自在で、サイト間の関連などもグラフ状に示し、閲覧数などによってそのビジュアルの大きさを調整する。

それによってネット空間上にも風土のようなものが生まれ、それぞれのサイトの固有性、その周辺地域の固有性、というようなものが現れてくるだろう。これはまさに視覚的な情報「空間」(平面だが)であり、ネット空間上でのより固有性のある文化の可能性をつくる。その結果ネット上でも多様性と固有性が均衡する、リベラルとナショナリズムが均衡するような、豊かな活動が生まれるのではないかと思うのだ。


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