「PLUTO」AIと感情

修士論文を書かなければいけないのに、ふとしたことからNetflixを開き、手塚治虫と浦沢直樹の「PLUTO」を観だしてしまった。しかもこれが非常に面白いというか、生成AIもなかった時代の人がこんな話が作れるのか、と思うくらいで、これは絶対観た方が良いと思う。

ロボットと人間が共生している時代の話なのだが、元々はロボットは人間の召使として開発されてきた名残のようなものもあり、今ではロボットにも人権を認めているような状況である。とはいえロボットは人間に危害を加えてはいけないなどといった国際的な法律もあり、また基本的にロボットは主人の言うことは聞かなければいけない、というような仕組みでもある。

ロボットのプログラム自体が変わっているわけではないのに、ロボットたちがそれぞれ少しずつ人間の感情のようなものが分かり始めていくという過程の描写には、非常にリアリティがあり、もし人工知能に感情や意志のようなものが芽生えていくとするなら、こんな感じかもなと思わせるようなものであった。

この時代ではロボットの完成度はどんどん高まってきており、見た目では人間と区別できないほどで、ロボット同士で家族を持って子どももいたりする。そんな中で家族に対する愛情のようなものや、ロボットを破壊する人間への憎悪を覚えたりすることが起きるようになり、自らに与えられた使命や、人間との関係に煩悶するロボットの姿が描かれている。

私たちの暮らしている現在でも、生成AIの発展など機械学習、人工知能のようなものの存在感は非常に増しているように感じられるが、まだ生成AI、ChatGPTなんかが憎しみを持ったり、愛情を感じたりするといった段階は程遠いように感じられる。それはなぜなのかと考えると、やはり、これらには身体がないからだろう。PLUTOにおけるゲジヒトやアトムのように、身体を持ち、様々なものに触れたり、人間や生き物と生活を共にしたりする中でこそ、自分というものを感知できるようになりそうだし、他者というものを認識したりできるような気がする。そして自分という身体の有限性がわかれば、つまり破壊されれば自分も死んでしまうということがわかった上で、共に過ごす他者も同じようにいつかは死んでしまうという運命を共にしていると感じられるからこそ、愛情や、悲しみや、ひいては憎しみのような感情が生まれてくるのではないかと感じられた。こういったことについて考えることは、そもそも私たち人間がどのような契機から自分を認識し、他者を認識し、自分と他者が共通して持つ有限性、同じ運命を共にするという人類としての意識を持つのか、といったことを知ることにも繋がっているのだろう。

また一方で考えたことは、例えば生成AIでは言語によるインプットしかないのであるが、人間における様々な感情は、様々な媒質によって受け取ったインプットが混じりあうことでできているのではないか、ということである。光による視覚の刺激や、涙を流すときのしょっぱいような感覚、血流が早くなった時の体温や脈拍の振動、そうしたものから得られる多種多様なインプットが、私の脳というプラットフォーム内で出会い、混ぜこぜに処理されたものが私の心なのではないか。感情というものは、感覚のスープのようなものではないか、と感じられるような気がした。そう考えると、人工知能も彼らのように生活する中で、様々なセンサーを通じてインプットを受け取るようにならないと我々の思う感情的なものは生まれえないのではないだろうか。様々なセンサーから得られた刺激を独立に処理するのではなく、混ぜこぜにして処理できるようなもの、別々のインプットが互いに影響を与え合うようなロボットが作れたら、そこに感情が生まれるかもしれないと、夢想したのだった。

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