「楽しむ」ときの語彙の無さについて

近年の、ネオリベラリズム的な、進歩主義的な考え方に対して、いわゆるスローライフ的な、目の前のものに対してゆっくりはたらきかけたり相互作用したりするようなことというのは流行っているし、魅力的に思える。
特に農業や、キャンプや、陶芸、裁縫、料理など、実際に手でものをつくるような、手応えの感じられることである。

しかし、こういうものを勧める人の言うことをきいていて気になるのが、その際の語彙がなんだか少ない、ということである。

色々説明はつくにしても、結局は大体において、なんかいいよね、とかなんとなく楽しい、とかしかない。これはなぜなんだろう。これでももちろん届く人には届くだろうが、文字主体の世の中ではあまり訴求力をもたないだろう。

ロゴス、とピュシス、という対比がある。ロゴスとは人間がなにかから理念的、抽象的につくりだしたモデルに関することであり、ピュシス、とは基本的にそうしたモデル化をうける前のものに関することであろう。

ここで、先に出したようなスローライフ的な価値を感じられる行為は、概してピュシスに関することを楽しみの源としている。というかむしろ、楽しみ、というものはそういったピュシスの面に属するものだろう。
ロゴス偏重になってしまった状態から、ピュシスの面に注意を向けるということが純粋経験にあたるから、最近のスローライフに向けた風潮はこの純粋経験への指向だとも考えられるだろう。

ロゴスの世界とは、自然科学をもとにしたことで、基本的に数学を共通言語として体系化された知識であるが、これを楽しいと思うことがあるとすれば、それ自体はやはりロゴスの範囲からは出ていて、数学をやる人の心のピュシス的な面が、ロゴスとピュシスの調和を感じたときに、美しい、と思えるのだろう。

結局のところ、やってみなければわからないような価値があるから、このロゴス偏重の時代に取り沙汰されるのであって、説明する語彙が少ないことは、むしろ当然なことなのかもしれない。
数学だって勉強してみなければわからない楽しさがあるし、本だって読んでみなければわからない楽しさがある。

しかし、こういったピュシス的なところが言語化しづらく、ロゴス的な語彙で抽象化して伝えることしかできないから、様々な齟齬が起きてしまうのかもしれない、と感じられるところだ。
本音と建前、などというが、そういったピュシス的な面は表立って捉えられることが少なく、精密に言語化されるような場面がなかったためにこうなってしまっているともいえるだろう。

実際に行為する際の楽しみや、苦しみそのもの、そういったクオリア的な従来言語化されてこなかったことについても、より精密に語ることの出来る手段がとても必要なように思われる。

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