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福沢諭吉「小学教育の事 二」~小学校で最初に教えるべき文字について

経済的な事情で退学せざるを得ない貧困家庭が多い中で、小学校の教育は何を優先させるべきかを「小学校教育の事 一」で福沢は問題提起しました。
「二」ではより具体的に何を優先的に学ぶべきかを論じていきます。

現代とは社会的な背景が違うのと、あくまで学校を途中で辞めざるを得ない貧困家庭の子どもを軸として論が展開しているので、少し違和感を感じるかもしれません。

ですが、子どもが将来社会で生きていくうえで少しでも実用的なものを身に付けさせるべきだという福沢の姿勢がみてとれます。

要約

平仮名と片仮名は一般的には平仮名の方が広く使われている。退学してしまう可能性のある貧民の子は日用で役立つ平仮名をまず学ぶべきである。

また「いろは」と「五十音」どちらを優先すべきかというと、「いろは」は世間で順序を示すものとしても使われているのに対し、「五十音」は学問上用いられているものである。貧民のためには学問より日用使いを優先して、「いろは」を先に学ばせるべきだ。

書家の人は楷書を先に学んで草書をその後に学ぶべきだというが、日常では草書の方が使われているため、まずは草書を学んだ方が良い。

高尚な先生方の視点ではなく、日用の役立つものをまずは教えるべきである。

現代語訳

平仮名と片仮名を比べてどちらの方が一般的に使われているかを問うと、平仮名であると答えざるを得ない。男女の手紙に片仮名は用いない。手形・証文・受取書に用いられない。百人一首はもとより草双紙(絵入りの娯楽本)やその他民間で出版されている読本には全く漢字を用いず平仮名のみのものもある。また、町の表通りを見ても、店の看板・提灯・行燈の印にも片仮名は用いられない。日本中の街道筋の休憩所や居酒屋に「めし」・「にしめ」と障子に記したものはあるが、「メシ」・「ニシメ」と書いてあるものは見ない。今、「めし」の字は俗っぽいから「メシ」に改めよと国中に布告を出しても、人の力では決して変えられないだろう。

そうであるならば、ここに小学生がいて、入学した後1・2か月で本人の病気か・親の病気か、または家の経済事情では退学することもあるだろう。その退学の時にこれまで学んだもので、片仮名と平仮名どちらが一生の利益になるだろうか。平仮名であるならば庶民的な場所でめしやの看板を見分ける手段にもなるであろうが、片仮名ではほとんど民間では用なしと言えるだろう。これらの便不便を考慮すれば、小学校の初学の第一歩は平仮名が必要なことは疑うべくもない。
 
 また、片仮名にせよ平仮名にせよ、いろは四十七文字を知れば、これを組み合わせて普段使いは問題ないのみでなく、いろはの順序は一二三の順序の代わりに用い、またはこれに交えて用いることが多い。例えば、大工が普請するときに柱の順番を付ける際に用いたり、その他にもくじ、芝居の席番号、下足番の木札などにもこのように用いられている。学者の世界では甲乙丙丁の漢字があるが、下足番などには決して用いられないだろう。いろはの用いられ方は非常に広く大切なものだといえるだろう。

 しかし、不思議なのは明治維新以来、五十音ということを唱えだして、学校の子どもに入学した初めから、まずは五十音を教えて、いろはを後に教えるようになっている。元来五十音は「学問(サイヤンス)」である。いろはは「智見(ノウレジ)」っである。五十音は日本語を活用する文法の基礎で、いろははただ言葉の符牒であるのみである。

 この符牒をさえ心得ておけば、たとえ難しい文法は知らずとも、普段使いに差支えはないだろう。文法の学問は非常に大切であるといえども、現代の貧民社会においてはまずは日用使いを学んでからの学問ではないだろうか。いろはを知らない者は、下足番にも用いることが出来ない。そうであるから、初めて学ぶのが五十音であるのは前後の判断がないものと言えるだろう。このことは7・8年前から私が良く唱えていたことだが、これに関心を持つ者はいなかった。近年はこれを説明することにも疲れたが、それでもこれを忘れることが出来なかった。最後の一回としてここにこれを記すのみである。

書家の主張によると、楷書は字の骨であり、草書は肉であり、まず骨を作った後に肉をつけるのが順序である。小学校の掛図などに楷書を用いているのもこのためであろう。一応最もな説であるが、田舎の伯母より楷書の手紙は来たことはなく、干鰯の仕切りに楷書が使われているのはみたことがない。世間の日用文書は悪筆でも骨なしでも、草書ばかり用いられているのはどうしたものか。
 
それだけでなく、大根の文字は俗っぽいため、これにかえて「蘿蔔(すずしろ・大根の別名)」を用いようという者がいる。なるほど、細根(ほそね)大根を音読みして細根(さいこん)大根といえば言いにくく字面もおかしくて、漢学先生(儒学者)の意にはかなわないだろうが、八百屋の商品表示に蘿蔔いくらと書かれていても台所仕事をする下女がこれを理解する日は明治百年になっても来ないだろう。

このほかにも俗字の小言をいえば、逸見(へんみ)もいつみ読み、鍛治町も鍛冶町と改めてたんやちょうと読むのか。あるいは同じ文字を違う読み方をするときもある。これはその土地の特色だろう。東京に三田(みた)があり、摂津に三田(さんだ)があり、兵庫の隣に神戸(こうべ)があれば、伊勢の旧城下に神戸(かんべ)がある。俗世間の習慣はとても高尚な先生方の意図にはあてはまらないだろう。貧民は俗世界の子である。まずは骨なしの草書を覚えて退学すればそれきりとあきらめて、都合がつけば後に楷書の根本をも学び、文字も俗字を先にして高尚な先生方の言っていることは後にし、まず大根を知って後に蘿蔔を知るべきである。


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