【往復書簡】かみつく力を取り戻せ!

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!ミルクボーイのコーンフレークネタ、ちょうどいま見ました!!正確には見初めて2秒で「無理」と思い、顔が無理と思った直後に声が無理と思い、しばらく頑張って見続けたら胃がキリキリしてきて「こんな世界を生きていたくない」となり、生きる力が根こそぎ奪われかけたところで途中放棄しました!!顔が無理だと全部無理、というのは偏見なのかもしれませんが99.99%的中する直感なので、改めて「俺のセンサーは素晴らしいな」とか思ってしまいました。小生も壇珠さん側の人間です。世間的な笑いの感覚とはズレているとしても、毎回爆笑できる往復書簡が好きです!!俺らのほうがよっぽど面白いじゃねえか、とか思っちゃいます!!

学校と市役所と警察が嫌いです。意味不明に警官を呪ってしまいます。道を歩いていて、警官が数百メートル先にいるのを見つけると、進行方向を変えます。別になにも悪いことなどしていないのに、わたしがあまりにも限りなく犯罪者に近い市民であるため、警官と鉢合わせたらまず真っ先に誤解を受け、牢獄にぶち込まれ、獄死する気がしてしまうのです。警官を見ると理由もなく許せなくてワナワナしてきます。わたしはこんなことを多くの人の読むものに書いてしまったので、警察官侮辱罪で捕まるのでしょうか。しかし、捕まるのだとしても書きたいと思います。警察官が死ぬほど嫌いです。これで投獄された場合、よかったら面会に来てください!!おねしゃす!!

超絶わかります!!私も警察官が苦手です。警察官と目が合うと「ついにバレたか」と身震いします。赤いランプを明滅させながら走るパトカーを見ると「絶対に俺だ」と思って観念をします。あいつらが探しているのは俺だ。そして俺は投獄をされて獄死するのだというイメージが0.2秒で膨らみます。壇珠さんの言う「警官を見ると理由もなく許せなくてワナワナしてきます」という感覚はすごいですね!!私のずっと上を行っている感じがします!!壇珠さんが投獄された暁には、面会に行っているふりをしながら脱獄の方法を全力で考え抜き、常に一発逆転を狙うふてぶてしさを死守したいです!!

私は教師が嫌いなのですが、教師や警官が象徴しているものは『権威の側の人間』であることだと思います。私は、ものすごい乱暴なたとえになりますが「壇珠さんが仮に指名手配をされて、世界中を敵に回している状態になったとしても家に匿ったり逃げるための手助けをしたい」と思います。それが信頼だと思うのです。この時に「お前は社会的に間違ったことをやったんだからいますぐ自首するべきだ」と教え諭すことが一般的なのかもしれませんが、それって結局体制側の意見だと思うのです。信頼というのは「お前がそうしたからには、何かしら理由があったのだろう」ということを暗黙の了解として受け止め、共に死ぬ覚悟で共に生きる道を探る。極端ですが、それが信頼だと思うのです。常識が許す範囲なら何をしてもOKというのでは、壇珠さんより世間体を優先していることになります。そんなものはうんこだと思うのです。迷惑をかけなきゃなにをやってもいい、ではなく「迷惑をかけたとしてもなにをやってもいい」だと思うのです。そこで発揮されるものが真性の愛だと思うのです。教師や警察に従うことは、人間を信じることを諦める(薄める)方向に進みそうで、本能が拒絶をしているのだと思います。

市役所に行っても、死のガスが蔓延していることを感じます。なぜなら、なぜか市役所で対応してくださる方たちが死んだ目をしていることが多いからです。わたしは親類に役所で働く者がいるのですが、正直なところ業務は恐ろしくつまらないそうで、人生は退屈との闘いであるということでした。なぜそんな思いをする人がいなければ成り立たない社会なのでしょうか。楽しく仕事をしている人もいるのかもしれませんが、わたしは偏見を持って勝手に退屈しているのだろうと思い込み、彼らに対する申し訳無さと怒りが湧いてきたりして、役所に居るだけで自分の狂人部分が暴れて震えます。市役所に乗り込み、銃で脅してお金を渡して辞職を迫る日も近いかもしれません。こんな事書いて大丈夫でしょうか。たまに自分のジョークは圭吾さん以外の誰にも通じていない気がして怖いです。

死のガス!!めちゃめちゃわかりやすいDEATH!!みなさまにもこのジョークが通じることを祈りながら書きたいのですが、私は、公園の看板を見ると引っこ抜きたくなります。ここでキャッチボールをするなとか、ゴミを捨てるなとか、全部うんこだと思います。最近ではお菓子の袋に「切り口でケガをする恐れがあります」などと書いてあります。これを見て世も末だなと思います。街を歩けば「通路が狭くなっているのでお気をつけください」というアナウンスがエンドレスリピートで鳴り響いています。ちょっと頭がおかしいんじゃないかなと思います。高速バスに乗ると、運転手が10分以上乗車のルールを説明したりします。そして最後に「ごゆっくりお寛ぎください」などと言います。私はどの口が言っているのだと腹が立ちます。過保護なアナウンスは増える一方で、街中は注意書きのノイズだらけです。それは相手のためを思ってのものというより「何か問題が起きたとしても、自分はあらかじめ言っておきましたからね」と予防線を貼るためのアナウンスに聞こえます。一億総保身です。世知辛いっす。世の中カレーは世知辛いっす。

おそらくですが、市役所の人も「ふざけんな」と思うことは頻繁にあると思います。甘ったれた市民に「自分で考えろ」と思うことは日常茶飯事だと思うのです。死のガスが漂うのは、そういう「ふざけんな」的な感情を出すことが禁止されているからだと思います。だからこそ、私は「ふざけんなと言っちゃうことも愛」だと言いたい。あんまりペコペコしすぎてはいけない。ペコペコしすぎるから、調子に乗っちゃいけない人がどんどん調子に乗るのである、と。学校教育ではいかに人の言うことを聞けるかが評価されがちですが、それだけではアカンと思うのです。一番聞かなくちゃいけないのは自分の声であり、嫌だと思うことを受け入れてしまったら自分が嫌な存在になってしまいます。これは生命の冒涜であります。自尊心を守るためにも、人間の尊厳を守るためには、自分の心が違うと思うものには「ふざけるな」と言えるだけの勇気が、必要なのではないのかと思ったりします!!押忍!!

わたしは人を時間給で使うことに恐ろしさを感じます。その「生きる時間を費やした代償に一定額のお金をあげよう」という発想がとても怖いです。代償、というのが怖いです。老化と引き換えにお金をあげようと言われているみたいでゾッとします。そんなお金こそ、黒いお金なのかもしれません。命と引換えにしたお金です、悪魔の金です!!

うおおおおお!!我が意を得たり!!我が意を得たりといった感じです!!大便をありがとうございます!!間違えた代弁をありがとうございます!!大便=代弁感が高いです。出すものを出してスッキリ。私は反逆児が好きです。反逆児は目からウロコを落としてくれるようなことをたくさん言ったりやったりしてくれるから好きです。そして、本当は人類全員が反逆児だと思います。人類全員あまのじゃく。やれと言われたらやらない。やるなと言われるとやりたくなる。そんなあまのじゃく気質は、誰の中にもあると思うのです。そこが封じ込められると人間性は歪みます。みんなと同じでなきゃいけないという型にはめられ、少しでも逸れるとひとでなしの烙印を押されます。反逆児は、この窮屈さに「ふざけるな」と叫びながら風穴を空けます。

私は、なにかにかみついている時の自分が、もっとも生き生きとしていることを感じます。違うと思うものに「違うだろ」と突っ込めている時、生きる力がもりもりっと湧き上がります。逆に言えば、かみつくことを自分に禁じて、しっかりやらなきゃだとか、ちゃんとやらなきゃだとか思っている時ほど、私の魅力は死んでいます。お前もミルクボーイになれだとか、お前もミルクボーイを見続けろと言われると「こんな世界を生きていたくない」となります。携帯ショップで働けと言われると自害をしたくなりますが、携帯ショップの燃やし方を述べよと言われた途端、生きる力を取り戻します。全然関係ないですが、私はリンゴをまるかじりするのが好きです。リンゴをまるかじりしていると「まだまだ戦えるぜ」という気持ちになります。文字通りかみつく力が鍛えられているからだと思います。鬱っぽくなった人はリンゴにかみついてみればいいのだと思います。文字通りやるのは効果的です!!

今の社会って、思ったことを言うな。思うだけにしろ。他者が嫌がることは言わないで暮らせ。というのがほとんどルール化していますよね。そのために、社会に「人ってニコニコしていても腹ではなにを思っているかわからない」という不信感が蔓延している気がします。禁じれば禁じるほど、人ってその思いを強めてしまうと思うんです。人々は疑心にまみれています。

ありがとうございます。勝手に背中を押されています。私は「ノーしか言えない日本人」になりたいと思います。楯突いて楯突いて楯突きまくって、最後の最後まで悪あがきをしながら散りたいと思います。めげそうになったときはリンゴをかじります。リンゴでダメならサラミをまるかじりします。サラミをまるかじりすると野性を取り戻せます。ノーしか言えない日本人の毎日は戦いであります。油断をするともっていかれます。毎日般若心経を読みます。278文字で書かれた般若心経には『無』という言葉が21箇所出てきます。全部に「ノー」を叩きつける般若心経は私のバイブルであります。

わたしと圭吾さんは、そこで少しでもガス抜きをして、言っちゃヤバいことを言う存在でありたいですね!!社会のガス抜きをしましょう!!オナラです!!屁です!!我々は社会の屁です!!狂人書簡が、いよいよ放屁書簡となってまいりました!!

うおおおおおおおおお!!放屁書簡!!マイガッ!!往復書簡からの狂人書簡からの放屁書簡!!来るところまで来ましたね我々!!マイガッ!!こんなことになるとは微塵も思っていませんでした!!これぞ人生の醍醐味!!男と女の話をするはずだったのに、放屁に着地するとは!!マイガッッ!!

我々も、社会の片ケツを上げさせる放屁書簡で、誰かの心に火のつくプラシーボ効果を狙っていきたいですね!!これを読んでつい熱い気になってしまい、その熱さでついついほんとうに体温が上がり、アドレナリンまでが分泌され、それを繰り返すうちに思わず自分が熱いやつなんだという気がして熱い行動に出てしまうような、そんなプラシーボ効果付きの危ない放屁書簡でありたいです。それでも熱くならない人はどうすればいいかって?そんなときは、自分を取り囲む要らない服や日用品を全部空き地にまとめてキャノーラ油をかけて火をつけ、焚き火にしてあたってくりゃいいのさ!!身体は温まり、心は最高に清涼だぜ!!ありがとうございます!!

ありがとうございます!!心とキャノーラ油に火をつけていきましょう!!小生、燃えてきました!!「燃えてきました」と言うだけでテンションがあがる自分が好きです!!この瞬間も燃焼を続けているから生命から「おいこらお前も燃えろ」と言われている感じです!!過去も現在も未来も全部燃えカスみたいなものですよね!!瞬間を燃やして生きる我々、最後に残るものは天に昇る紫煙だけだと思います!!ありのままでいいとか頑張らなくていいとかあなたはあなたで素晴らしいなどに代表される癒しの言葉は全部嘘っぱちで、命の本音は「もっと生きたい」だと思います!!この瞬間も命は踊りたがっていて、それは「楽しみたい」「充実したい」「人の役に立ちたい」「いい仕事をしたい」「めちゃめちゃにやりたい」などといった欲求を通じて、メラメラに燃え盛る瞬間を待っているのだと思います!!過保護とは真逆の欲求です!!人生に体ごとぶつかっていく!!命はそれを求めているのです!!男は死んでから眠るもの思うとります!!生きて生きて生きれるだけ生きて「もっと生きたい」と思いながら死にたいと思うとります!!

喜怒哀楽の全部を大事にしながら、小生、生きていきたいと思うとります。怒りをネガティブなものだと考えると「出しちゃダメなのかな」と躊躇したりもしますが、怒りの中には神聖な炎がメラメラと燃えている感覚があります。怒りの逆は愛だ、だから愛をもって人と接しましょうなどと言われても全然ピンときません。私は、怒りの中にこそ愛があると考えます。喜怒哀楽の『怒』だけを封じることは不可能で、どれかひとつを押し殺すと、他の感情も同時に死ぬ感覚を覚えます。全部込みで人間だろうと。良いことばかりじゃダメなんだよ、本当の良いには「悪い」もあるんだよと、そんな気持ちになるのです。喜びの中に愛があり怒りの中に愛がある。哀しみの中に愛があり楽しさの中に愛がある。小生、喜怒哀楽の全部が愛だと思うとります。

ひどく月並みな言葉ですが、優しいひとには二種類いると思います。「強いから優しいひと」と「弱いから優しいふりをするひと」の二種類です。誤解を恐れずに言うと、いま、社会的に蔓延している優しさは全部後者だと思うのです。これじゃあかんと思うのです。牙をなくしたらあかん。締めるところは締めなあかんと思うのです。そうじゃないと一億総奴隷みたいになると思うのです。我慢大会みたいな優しさは全部嘘です。このままでは世界全体が市役所になります。死のガスが充満してしまうと思うのDEATH。その前に、我々の放屁書簡が「目には目を、ガスにはガスを」の精神で、市役所アトモスフィアを突破していけたら万々歳!!やってやりましょう!!社会の片ケツをあげて、おならに火をつけていきましょう!!それを見てゲラゲラ笑って、投獄された暁には一緒に檻の中で「羯諦羯諦」合唱しましょう!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!