弱き淵より世界を臨む

一週間前に風邪を引いた。一週間前に「も」風邪を引いた、と言った方がより正確かもしれないが。

僕は極端に身体の弱い人間だ。小学生の頃、月に1度ずつは熱で学校を休んでいたし、高校生の頃には3年で4度インフルエンザにかかった。パリに来たての頃には、その空気と水が余りにも自分に合わなくってそれこそ年がら年中寝込み、その度に、どうして僕ばかりがこんなにも弱い人間なんだろう、と自責した。

そんなこんなが余りに悔しくって、ある時、免疫力を高める方法を片っ端から調べた。その中で目に留まった「1日1食健康法」というのがあって、3年くらいやっていた。その3年間はなかなかいい時間だった。随分とノーマルな健康を保てていたし、多くの事に対して常にエネルギッシュに、アクティブでいられた。色々な理由もあって、1年くらい前にやめてしまったけど。朝にクロワッサン、食べたいし。


ところで。最近になって思うようになった。どうやら「身体が弱い」ということは、僕の身体上の単なる不便な特質であるに留まらず、僕の音楽へのアプローチの仕方の一つの大きな軸がそこから派生しているようだ。身体の弱さという肉体的要因が、自分の音楽性≒人間性という、精神的部分に知らぬうちに影響を与えている。

例えば、ショパンは極度に繊細で気難しい作曲家だ、ということは百も承知の上で、しかしおこがましくも、僕は彼の音楽に強く共感ができてしまうし、彼がふと弱みを吐露したフレーズには「その気持ち、わかるよ。」と頻繁に言ってあげたくなってしまう。彼も身体が弱かった(もちろん、僕なんかよりもずっと深刻に…)。
彼がバリバリの健康体だったら、あれらの音楽は生まれてこなかったであろうと思う。コンチェルト第2番の、僅かにでもぞんざいに触れただけでこわれてしまいそうなほど繊細な世界も、最後のノクターンの、疲れ切り、毎小節毎小節、どうにか億劫に進みゆく歩みも、弱き人間にしか作り得なかった、と勝手に思っている。

暗く寒いパリの夜に、熱にうなされながらふと頭に流れるのは、彼の作品40番台の作品の数々だ。陽が落ちて冷え込みが始まれば、どうしたって熱が上がる。夜は長い。長い夜の間には何度も悪い夢を見る。そんなことを頻繁に繰り返すうち、僕は夜そのものが嫌いになった。夜はこわい。作品40-2のポロネーズや作品48-2のノクターンには、そんな夜への恐怖、あの、熱に浮かされ長く続く夜への拭えぬ恐怖が垣間見えはしないか。(もちろん、ショパンはそんなこと露程も思っていなかったかもしれないんだけど)


最後に屁理屈を1つ。「大は小を兼ねる」と言う。では同様に、強は弱を兼ねるのだろうか?と考えることがしばしばある。けれど、弱き者が強くなることと、強き者がか弱くなること、どちらが難しいだろう?ある者が訓練によってより強くなってゆくことはできても、その逆は、果たして訓練によって可能だろうか?
ショパンのバラード第4番はとても強い「何か」を感じさせる作品だけれど、それは弱き者が苦悶の末にようやく辿り着いた強さではなかろうか。彼の健康がもっと剛健で恵まれていたら、あの強さには辿り着き得なかった。。。


と、ここまで書いて、今一度文章を読み返す。わあ、なんだかすげぇ悲観的な文章になっちまった!しかしここで本当に言いたかったことは、そんな暗い事柄ではなく、僕は弱いからこそ見える世界もあると思っているし、自分の身体に綻びが出る度に、まったくしょうがない身体だなぁ、と思いながらも、そんな身体を受け入れて感謝もしているということ。てなわけで僕は今日も明日も、毎日手洗いうがいをしっかりしつつ、意外と元気にしっかりと、パリでの日常に悪戦苦闘しています。


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