純粋に随筆的、または単にぐちゃぐちゃとしてしまっただけの独言

「どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮しているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合があるーーー」

太宰治最初の短編集『晩年』に収められた小さな未完の一編『玩具』より、冒頭です。ところで一体全体こんなにもーーーなんという日本語で表現をしたらよいのかと迷いますけれどここでは敢えて"愛おしい"と言うことにしておきましょうーーーこんなにも愛おしい書き出しの文章が果たしてこれまでありましたでしょうか。僕よりも1歳若い26歳の頃の作品ということで驚きつつもどうにか納得はできるのですけれど、それでもなんと"極端に人間的な"お方だったのだろうとやはり哀しくもなるわけであります。

同短編集より、こちらも僕の大好きな一編『葉』においては、最後の一文をまたも「どうにか、なる。」で締め括っていますーーー最終的には38歳で自らの命を絶ってしまう彼、その心の将来的な崩落と、どうにかなろうどうにかなろう、とすがっていた、のかもしれない心の必死の動向の萌芽が、既にここには見えていたのかもしれないと思うと居た堪れなくなることもあって、そんなわけで先程は"愛おしい"という語彙を用いたのであります。

でもね。彼。どなたかが何かの作品のあとがきでも指摘されていた記憶がありますが、その文章は何だか大変楽観的なリズムを持っているように同時に思うのです。それは、上記のような初期作品においてだって、あのとほうもない傑作『人間失格』においてだって。暗い言葉の連なりで、あれまぁなんてウキウキした世界なの!と思わせられてしまう瞬間がある。つまり悪い意味だけではなくってほんとうに、楽観的に「どうにかなる」って思っていそう…不思議なことにそんな瞬間が、読んでいて節々にあるのです。本心か、錯覚か。
人間の心の、陰陽、またはあらゆる物事の、裏と表。それらって、ぜんぶ繋がっているのではないかと、もしくはほとんどメビウスの輪なのではなかろうかと思うようで、何ておもしろいの!とも思う一方でもうだめだと気が遠くなるような気にもさせてくれる、そんな文学って、あるのです。あぁ、「紙一重」。

くすぶった音楽たちを日頃から弾かせて頂くことも多い身としては太宰や三島は特に惹かれてしまう作家のうちに入るのですけれど、あまりに強くてもろい、または崩れてしまいそうなほどに力強い...言葉にしてしまうと明らかな矛盾のようですけれど、かけ離れた二面性がガシャンと一つになった文体、というのは何とも計り知れない深遠を見せつけられるような気が致しまして。よい…ところでお二方の共通点はまず、「希死念慮」というところにやはり、ありますでしょう。


死の意識、ということに関していえば。シューベルトやモーツァルトの音楽を聴いていると、20代の彼らは自身が確実に30代で死ぬという確信を持っていたとしか思えないように感じるところが多々あります。一体何にそんなにも駆り立てられているのですかあなたは、と思うようなメロディの数々、走馬灯。神に特別に愛された者にしか得られぬ死生観でものを書いた彼らにやはりどうしても私達は惹かれてしまいます。ところでコロナがやって来て私達の中で一つ大きく変わったことはと言えば、死について考える機会が明らかに増えたことでしょう。死が実は皆の手の届くところに潜んでいる、それを多かれ少なかれ、意識せざるをえない時間を皆経験しているのではないでしょうか。そしてそれは本当はいつだって忘れてはならなかったことで、実は芸術がいつも私達に向かって訴えていることでもあります。


ーーー終を意識する?
この半年はやはり家にいる時間も多く、真剣にボーッとしていると、自分も昔よりは少しだけ歳を取ったことに気付きました。いやまだ若い、と怒られそうですがそれでも少なくとも終わりは小学生の頃なんかより確実に近づいていることを感じることができます。感じてしまう、のではなくて、感じることができる、です、そしてそれを理由としてしまってやりたくないことを10代の頃よりかは堂々と、"やらずにおれる"こともあってか、終わりについての意識が頭の片隅にあればこそ毎日は意欲に満ちて楽しくて仕方がないわけであります。春夏にかけてのあの異様な数ヶ月を経て以来、一日一日がたのしくって仕方がない!それはかなしいことに終末思想と紙一重の楽しさなのでもあります。今日はあの曲もこの曲も練習したい、明日はこのコンサートもこの展覧会も行きたい、あれも見たい食べたいし料理したいそこら中の雑貨屋さんに買いたい雑貨もいっぱいあって(特にパリは全くなんて魅力的な街なんだ)と最近は毎日嬉しすぎて困りながらああ楽しいと日々を生きフッと、ある時、冷静になった瞬間ーーー結局不器用な私は何も大したことを果たさずに今日を終えたことを知る。その繰り返しです。偉大な音楽に身を捧げることとは、音楽に比して自分が何事も為していないと知るところから常に始まり、だけれどもそれに憑かれたように魅せられてしまう心、そのものなのかもしれず、つまり諦めと時めきの紙一重なのかもしれません(※こんなことを数日かけて書いている間にフランスはロックダウンとなり、本当に何事も果たせなくなってしもうた)。


気付けば初心に戻りました。何が、って?人生には終わりがあるから今という時間に意味が生じる、と初めてのnoteの記事にも書いたことを、今思い出したのです。図らずも。1年と数週間が経っていました。
一生は短い。明日は好きなもんを食おう。

どうにか、なる。



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