ピアニスト(2)

旅が好きだ。

移動の日には朝から心が浮き立つ。朝早い電車に乗るのだけれども、その前にピアノの練習なんてしちゃおうっかなあ、など、思ったりして、早起きが決して苦ではない(早起きが苦でないのなんて、むしろ移動の日くらいのものではなかろうか)。晴れていれば尚更。乗り物の窓から差し込む光は眩しく、練習室の狭さ暗さによって溜まった疲労を全て溶かしてくれる。
電車や飛行機というのは移動する景色窓で、普段の生活においては一つ一つ順番にゆっくりとした速度で現れる景色をたくさん、一気に総括してびゅんびゅんと、見せてくれる。速い。ちょっと戸惑うけれど、コーヒーも買って、そこはある意味どんなカフェのテラス席よりも贅沢な空間だ。
見知らぬ土地に行くのはよし、見知った好きな土地に行くのもまたよし。つまり旅の中で唯一心踊らぬのが、見知って、かつ、嫌いな土地に行く時のみで…いや、でも、そんな場所って、世界に一つでもあったっけ?

さてピアニストは、自ずと知れた、旅する職業である。年の公演数が増えれば増えるほど年の移動回数と範囲も増える。そりゃあだって、常に同じ場所でのみ音楽を届け続けるわけには、いかないのだから。移動好きの僕はそんなわけで、ピアニストになればなるほど(そのような日本語はないか?)、結構生活が嬉しいのです。ところで今回は、その移動について今一度…音楽と、移動との関係性について、改めて考えてみました。移動中に。


音楽家の生涯から旅というものを取り除いてしまったら、どうなるだろう。楽器に触れることができず、腰には負担となるばかりの(これは結構深刻な問題です)移動時間を、じゃあ全て取り除くことができれば時間のロスが無くなり万々歳なのかと考えれば、答えは僕の中では明らかに否であった。

僕は、かつて自分が弾いた作品について思い出す時、その「時期」と「場所」というものが、必ず作品の中に含まれて記憶されている。この曲はどことどことどこで弾いた、あの曲はこことこことあそこで。その風景や空気感、出来事の記憶と共に。場所の記憶は感情の記憶をも呼び戻してくれるから、この曲はあの時どうやって弾いた、何を思って弾いた、何を感じていた、まぁまぁ下手だった、かなり下手だった、云々、記憶力の悪い僕でさえ実は結構鮮明に思い出すことができるのは、旅の魔力かと思う。それが長旅であればあるほど、不思議と魔力も増した。腰への負担となるあの長い時間と引き換えに、記憶が勝手に熟成されていくのだと思う。

音楽というものは形がなく曖昧で、そしてひとの記憶というのもまた形なく曖昧、だから音楽の記憶はなどというものはとても曖昧なものです。音楽家がその生涯を通して積み重ねる成果は目に見えず、当人にとってさえ結局、ほとんど実態のないものの積み上げに過ぎない。音楽は所詮(音楽をばかにしているのではありません、この所詮は愛情込めて言う"所詮"です!)、日々我々が四苦八苦しながらひとつの成果を得ようと追い求めて、そしてある時何かを掴みかけたと錯覚したかと思えばふっと次の瞬間にはもう崩れ去ってしまう、そんな儚き幻想の連続なのです。
そんな中で作品に対する記憶の層を少しでも実体のある層として積み重ねてゆくことができるよう、一助となってくれたものが思い返せば旅であった。だから、旅である。旅の魔力が、必要なのである。

もちろん時に練習不足の中で旅が重なると、時間との闘いに疲労との闘いが重なり、電車の中でも楽譜を広げて必死、ゆっくり寝られやしないし、着いては一刻も早くピアノに向かってあーでもないこーでもないとバタバタもがき、「もう旅なんて」とその時は思うのだが、それでも喉元過ぎれば熱さ忘れる、ってもんで(若しくは僕が鈍感なのだろうか)、やっぱり旅はいいもんよ。もやもやとした、捉えどころのない音の記憶の靄の中でぽつ、ぽつ、と時々目印になってくれる「旅」があってくれてよかった、音楽家が旅する職業でよかったなと思う。そもそもこの文章も、移動のなかでぼうっと景色を眺めるうちにふと書き始めようと思い立ったものなので、旅が無ければ書いていなかったかもしれないし…近い将来にリニアモーターカーは発明されたとしても(きっとけっこう便利)、どこでもドアだけはどうか発明されませんように。

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