果てある人生と、音楽

人生には意味があるのか、否か。哲学の領域ではあまりにも頻繁に命題となる問いである。
高校生の頃、尊敬する哲学の先生の授業があって、その影響から、よくこの問いに関して思索に耽っていた。もちろん高校を出てからも折に触れてはその答えを、日常の中に、そして音楽の中に、探した。

僕の暫定的な答えは…と言うよりはあくまで1つの生き方のスタンスとしてであるが、人生には結局のところ実質的な意味などない、というものである。果てある人生がその終わりを迎えた時、そこで起きた事柄は全て1つの夢となり消える。後世に残したものは残り続けるじゃないか。とも言えそうなところだけれど、“無限”という途方もなく大きい時間の単位に目を向けると、やはり宇宙が終わる際に全ては終わることに気付く。(若しくは、宇宙の存在は無限だなどと言い切れるだろうか…?)

だから、人生はいつかは消えて無くなる大きな1つの夢である。

人生には意味が、ない、という姿勢へのよくある反論は、「そう思って生きるんじゃ人生がつまらなくなるじゃないか!」というものであろうけれど、僕にとっては逆である。人生は突き詰めれば、所詮1つの遊びだ、だからこそ私達は、日常の中に散りばめられている多くの美しき些事に、目を輝かせ時めく事ができる。あらゆる経験は、時間の流れと共にじき全て消える。だけど、例えば庭に咲く一輪の山茶花が美しかった時、それを美しいと思えたことは、その瞬間のその人にとってはまぎれもない事実だ。その事実が消えてしまうと分かりきっているからこそ尚更、そんな事実に、ただ刹那的に酔いしれていたってよいじゃない。

音楽という芸術は、実はこれによく似ていると思う。決して掴み取ることのできない、一瞬のうちに消え去って行ってしまう音たちの美を、消え去るからこそ良いのだと信じて追いかけ続ける事ができるのか。。。たとえそれが結局はひとつの夢に過ぎなかったとのちには思えてしまうとしても。

僕はある時期、人生の中に効率的で実質的な行動と成果ばかりを探して生きていたことがあった。しかしそうして実質ばかりを求めたその時期には、より良い成果のために有益でない他の全てのことが(芸術だって本来それに当たる!)、みな無機質でむなしき物質に見えてしまって、寂しくなった。


そういえば、上記のこととは少し意味が異なるかもしれないけれど、小説『蜜蜂と遠雷』の中に心を打つ一場面があった。
かつて天才少女として騒がれた栄伝亜夜が、風間塵という小さな少年の、自身のそれを凌ぐほどの巨大な才能を目の当たりにし、衝撃と共に思う。「神様と遊ぶには、すべてを捧げなければならない。すべてをさらけだし、全身全霊を懸けて遊ばなければならない……」遊びと覚悟とは紙一重だということだろう。僕もそのことには、強く共感できる。

終わりへの覚悟。終わりあると強く知った者だけが、究極的には無意味である世の多くの些事と戯れることを許され得る。諦念。信じることでは決して得られなかったものを、諦めによって得ることができる。。。


さて。こうして、それこそ半分"無意味な"思考で頭を遊ばせているなか、それでも今日という1日は、明日も明後日もまた否応なしにやってくる。人生への拭うことのできない大きな諦め、すなわち、小さなことへの時めきの連続、を持って、今日も明日も、もっと強く、僕は「無意味」の中に没頭してゆきたい。

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