電子機器こわい

電子機器が兎にも角にも苦手である(その関係の仕事の方、いたらごめんなさい)。しかし、この事実についてより正確に考えてみたところ、僕が電子機器を嫌い、というのではなくて、どうやら電子機器の側が僕のことを嫌いなのだろう、という結論に至った。

というこの表現に、僕と同じ"電子機器苦手界隈"の方々の中にはピンと来る方もいるかもしれない。どういうことか。

即ちこのようなことだ。友達と数人でカフェに行く。「あ、Wi-Fiがあるから繋いでみよう」という話になり皆で繋ぐ。皆繋がる、しかし、あれ、ひとり僕の携帯電話だけ、理由も分からず繋がらない、という事例多数。そこで友達に僕の携帯上で、僕がしたのと全く同じ手順で操作をしてもらうと、繋がったりする。僕が操作している場合にのみ電子機器が正常にはたらかなくなるのである!

別の例。パリに引越したばかりの頃、プリンターとテレビを買った。説明書を読み、順にひとつひとつ丁寧に手順を踏みながら、接続を試みる。うんともすんとも言わない。説明書と本体を何度も何度も行き来する。駄目だ。一旦その日は諦めて寝る…という奮闘を、何度やっただろうか、少なくとも5度くらいか。しかし何度説明書を見返して考え直しても僕の手順の中に"論理的不整合性"は無いし(大げさか?)、だからきっとたまたま機会が(機械が?)悪かったんだと、ついには潔く諦めまして、そのためその2つの機器は、今やそこに「ただ置いてある」。本来プリンターの方は、なんと無線を通してパソコンと繋がることができる!とかいう画期的なやつ、のはずだった。僕はプリンターとテレビに対しては最大の親愛を持って作業をしたのだけど、どうやらプリンターとテレビの側が、僕を嫌いみたい…

というわけで(突拍子もない言い分だ!)、僕が電子機器を嫌いとは一度も言っていないが、あくまで電子機器の側が僕を嫌いなのである。僕だってもし電子機器を軽やかに使いこなせたなら、どんなに世界が違って見えるだろう!



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ところで。withコロナ時代を生き抜くための鍵はテクノロジーにあり、と捉えられつつある中、テクノロジーと音楽の関係に関して、既にクラシック音楽業界においても試みが日々行われているのを見かけるし、やはり僕個人としても自然と考えずにはいられない。ウィルスの強制力によってデジタルが音楽に今まで以上に強く介入せざるを得ない今のような状況で、問題となるのはその良し悪しだろう。音楽にとって良いことなの?弊害は?ーーーそこで、その善悪について一応、うんと考えてみましたが、一旦の結論をここで述べてみるなら、デジタルが音楽(ここではクラシック音楽)にとって「善か悪か」、という簡単な話ではない、強いて言うなら"それが運命だ"。と、今のところは思っています。


「種」としての「ヒト」について今一度考えてみる(ホモ・サピエンスですね)。それが現代までこうして繁栄し続けることができた大きなきっかけの一つは道具の発明にあったと教わった記憶がある(※調べてみたら他にも色々な考えがありました)。それは謂わばヒトが持つ中心的な性質のひとつで、人類がかの有名な「石器」を発明した段階から、例えば現代のスマートフォンが、遅かれ早かれ、また形は多少違えど、生まれてくることは途方もなく長い目で見れば、ほぼ運命付けられていたと言えないか。
ヒトは、そもそも発明する生物であるからだ。そして芸術は、そのヒトの性質を前提とした何十万年という長い単位での一連の発展の一部にある。


音楽とデジタルの関係について1つの例を挙げるなら、例えば録音技術が発達するに当たって、その弊害についてもきっと幾度も語られたことだろうけれど(つまり安易に演奏にアクセスできるようになればなるほど、ひとは演奏を自分で"考えなく"なるのではないか)、それは場合によってはそうだし場合によってはそれを超える利益を享受できると言うしか結局ない。ぼんやりとのみ想像でき得る弊害の方を理由に録音技術を、実現し得る状況まで辿り着いたのだけれどもやめておく、ということは、私達ヒトには結局できっこないのではないか。
でも僕は、過去の偉大な音源を大量に知識として蓄え、それらを源として素晴らしい演奏をする友人演奏家も沢山知っているし、「あるものをどう使うか(若しくは使わないか)」という視点によって現在を精一杯生きるほかないだろう。

例をもう一つ。今SNS上で流行りの多重録音を、僕も実は自宅で自分でやってみた。多重録音ではアンサンブルの最も本質的な要素が抜け落ちてしまう、と思ってはいますから、それを今も悲しく思いますが、でも多重録音をしてみることで得られる学びも確かにあった。アンサンブルには、「自分が音楽を引っ張る瞬間」と「相手が音楽を引っ張る瞬間」とがある。考えてみれば当たり前のことなのだけれど、実はこれが自分が考えていた以上にもっとずっと、明確にキッパリと分かれていたようなのだ。多重録音をしてみて初めて分かったことだ。
このことが理由で、多重録音にはどうしても限界がある。あとに録音する人が、必ず先に録音した人に合わせるという構図になり、フレーズによってそれを切り替える、ということができないから。でも、多重録音の試みによってそれを知れたことそれ自体が僕にとってマイナスだったとは言えないと思う。やってみて、やはりよかった。「知るより知らない方が優れている」と断言することは、少なくとも多くの場合・多くの人間にはできないのではないでしょうか(天才の場合はわからぬ)。

しかし、あるものを使わない、という選択(ここではテクノロジーへの"闘争"と呼ぼう)ももちろんできる。あくまでアナログな分野に生きる、特に僕らのような職種の人は、少なくともこの闘争の概念を、常に選択肢のうちに含むべきだろうとは思っています…


さて、芸術はこうした「発展する運命」との共存と闘争の中から生まれる"しかない" というのが、僕なりの諦念観です。テクノロジーは発展してゆく。発展を止めてしまう勇気なんて、ヒトは持ち得ない中で、それと時には共存し、時には闘争し(ケータイなんて嫌いだ!と言い丸一日物置にしまってしまう、とか。僕はよくやる)、そうしながら、歴史の文脈の中でやっぱり生まれてこざるを得なかったものが、芸術なのだと思っているし、人間の歴史の全体性の中であらゆることがらがゆるく繋がる連環の一部として、芸術を捉えている。
その中で「それでもどうしてもいい音楽を」と、常に渇望することは、だからこそ大切だけれど。。。


だからこのコロナ期間を機に、『スカイプ合奏の為の室内協奏曲(通信によるタイムラグから起こるズレを前提として書かれている)』、なんてものが例えば書かれたとすれば、それもまた社会情勢の中から生まれたひとつの芸術だろう(まぁこれは冗談だが)。



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と、音楽とテクノロジーの関係についてひとつの俯瞰的考察を試みた。でも、いくら分析を試みても、僕が電子機器を苦手という事実は変わらないのだった(逆だ!電子機器が僕を嫌い!)。
というわけで僕にとっては非常に生きづらい、テレワーク時代がついにやって来てしまった。困ったこまった。

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