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【映画】ターミネーター2

ターミネーターについては、1作目は公開当時、劇場で鑑賞。
先日も配信で息子と一緒に見直していました。
ところがこの『2』については、公開当時鑑賞しそびれて、「新春スターかくし芸大会」でパロディドラマを見てなんとなく映画を観た気になり、その後しばらくしてレンタルビデオで観たという有様でした。
劇場公開してた頃、大学の先輩の映画を手伝っていて、そのスタッフ達で新宿に行った時(ロケだったかな)、劇場にかかっていたのでみんなで観ようぜ! ってなったのですが、私は特殊造形の仕事があったのでガマンして帰ることにしたのでした。
「かくし芸大会」については今でも当時の録画がときどきTwitterにあがったりしていますが、かなり出来が良くて、ダイジェスト映像を日本人キャストでやりきってる感じでしたね。
ネタバレ満載でしたが、当時は映画の受容ってそういう感じだったんですよね。
ちなみにそれ以外のターミネーター作品は未見です。

さて今回、『エイリアン:ロムルス』の公開を控えているからか再上映となりましたので、はじめて劇場での鑑賞となりました。
本作は3D化されたこともあってかそのクレジットが最初に出て「あれ! 3Dメガネは!?」と焦りましたが普通に2Dでの上映です。
その3D化の時のHDマスターを使っているからなのか、そんなに高画質ではないなとの印象です(VHSでしか観たことがないんだから比較対象があるわけでもないですが)。
それでも、当時あれだけ驚かされた「液体金属」も、意外とCGではなく造形でやってるところ多いなあと結構わかる感じではありました。

始まってしばらく、カットが長くて意外とテンポが遅めだなと思いました。
1作目はテンポが非常に速かったイメージがありますが、低予算のせいで長くまわせるほどのフィルムが使えないし、高品質な映像が撮れないため短めにカットを切り替えるのが得策というものなので、それもあったのでしょう。
今回は超大予算になったので満足できるクオリティの映像が撮れており、映像をしっかり見せることができているからか、少し長めのカットになってるなあと。
こういう高級な映画作りができるようになったことが、のちの『タイタニック』などにも結びついているんだなあと観ておりますと、意外にもこの作品、人間ドラマの比重がとても高いことがわかってきました。

それが強く明確になるのは、スカイネットを作ることになる技術者のダイソンを襲う場面。
殺そうとする時は躊躇なく、発砲! 侵入! 発砲! と、『ターミネーター』1作目で確立された攻撃手法でダイソンを追い詰めるのは、まさに、かつてそれで狙われていたサラでした。
しかしサラは、ダイソンの子供の姿を見て殺害を躊躇してしまう。
こういうバイオレンスアクションの映画としては甘いようにも感じられますが、サラは自分の息子が世界を救う重要人物であるとの思いに突き動かされて生きてきて、ジョンだけでないすべての子供の大切さを実感しています。
映画の最初のシーンが公園?で遊ぶ子供だったり、その子供達を焼き尽くす核兵器の恐怖を夢に見るシーンがあったり、ジョンの養父の実子を見たりと、サラにとって、ジョンだけでないすべての子供がとても重要であると何度も示されていましたので、ここがしっかり繋がっていて胸に迫ります。

父のいない(父がまだ生まれてもいない)ジョン、彼を守ることだけを命じられた、ある面では理想の父親かもしれないターミネーターことT-800、サラの3人がしだいに強く結びついていくのが映画の背骨になっています。
そういう描写のために尺をとるので、映画は長くなりますが、実に丁寧だなと感じることしきりでした。
前作同様、敵となる新型ターミネーターは感情のない殺人ロボットですが、その基本設定が、登場人物の感情を表現するのにとてもうまく使われていると思いました。

その流れは見事で、ラストの「溶鉱炉」のシーンが際立ってエモーショナルになっており、ネットミーム化した「涙なしでは見られない」が全然誇張ではないことが実感されましたね。
サラ役リンダ・ハミルトン、でくのぼうながらもどことなく人間らしい知性をのぞかせるようになるT-800役シュワルツェネッガー、母との対立を乗り越え彼女を守る存在になっていくジョン役エドワード・ファーロングの3人、彼らの名演には驚かされました。

「粗削りだがパワフルで面白い」との評判だった前作から、こんなに深みのある面白い続編を作れるとは、さすがキャメロンです。

今年この作品を観るもうひとつの意義としては、冷戦時代の核戦争への恐怖が強く反映されている点。
ジョンがゲームセンターでプレイしていたのは『ミサイルコマンド』と『アフターバーナー』と、どちらも現実の戦争や兵器がモチーフとなったゲームで、特に前者は降りそそぐ敵のミサイルを迎撃するという冷戦時代を象徴するようなゲームでした。
サラが夢に見る「審判の日」は、核兵器らしきものの被害を受ける描写で、かなり残酷で恐ろしく、迫力があるものでした。
都市をミニチュアで作って破壊しているのも、現代の目で見ると、チャチというより真剣さが感じられます。
これを見ると『オッペンハイマー』のノーランにもがんばってほしかったなあと思ってしまいます。
次作の『トゥルーライズ』(未見)では核兵器描写がいーかげんだと有名ですが、キャメロンが広島・長崎の原爆を映像化しようとしている点については期待したいところです。

また、AIを実現するチップとその開発者が物語のキーになっている点も、2024年の現在においてリアリティが高いです。
開発者の名前が「ダイソン」なのは、掃除機のメーカーの名前じゃなくて、SF関連ではよく名前の出てくる物理学者のフリーマン・ダイソンからとっていると思いますけどね……
あとダイソンの死に方もちょっとかわいそうでした(スカイネットを構成する因子として大きい存在だから消えてもらう必要があるのはわかりますが)。

SFとしては、タイム・パラドックスの問題をネグレクトすることで成立しているところもあり、せいぜい『バック・トゥ・ザ・フューチャー』並みかそれ以下ではあります。
そこは映画のラストでもはっきりさせず逃げていますが、そこに空白を作るところが、またすごくいいんですよね。
この辻褄を合わせるための映画を観たいと思わない満足度があったのも、以降の続編があまり人気がない理由なのか……
それでも、少なくとも『BTTF』に匹敵するような時間ものSF映画だったのは確かでしょう。

ロボットものとしても重要で、人を殺すロボット vs 人を殺さない(殺せない)人間、という二項対立を超克するストーリーと考えると、『ブレードランナー』に迫るものがありました。
字幕に「サイボーグ」という言葉が出てきて、あれ? と思いましたが原語では「マシーン」としか言ってないようでしたね。
この無神経な翻訳も、戸田奈津子氏の当時の字幕そのままのようでした。
でも期せずして、「このターミネーターたちをサイボーグと呼べるなら、脳や意識が人間でなくても身体の一部が人間であれば、ロボットではなくサイボーグと定義されるのだろうか」と、ポストヒューマンなことを考えさせられたりもしましたね。

しかしなんといっても、「私が人類にとって最も重要な人間を産んだ」という超特殊な意識と「私の子供は人類で一番大事」という超普遍的感情がクロスオーバーすることで、人類最強の女となっていくサラの姿、それを見事に表現したリンダ・ハミルトンとこの脚本、まさに名作と呼ばれるにふさわしい映画でした。

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