前提を問いなおすための「間」に、何をおくか問題
吉田田タカシさんを朝日新聞のBeという紙面で知った。調べてみると、記事はわんさか出てくる。
吉田田さんの話からインスピレーションをもらったので、記録しておきたい。
吉田田さんの名前の由来は、ダダイズム。
ダダイズムって(僕は知らんかったけれど。)芸術やアートの文脈で、常識とか当たり前を疑って、破壊する。そして、解放する!みたいな感じみたい笑
でも、中身はわからないけど、常識や当たり前を疑うことだったり、そのことを前提としない、みたいな考え方って「対話」の世界にすごい近いな〜って感じたのよ。
対話することも、自分が見ている世界を一旦おいて、相手が見ている世界に耳を傾けることからはじまったりするから。
新しい世界や新しい意味、みたいな発見するっていう意味ではおんなじプロセスをおってるのかもしれないって思うと、吉田田さんの活動って根底は近いんじゃないかなって思った。
考えると、対話のアプローチだって、もっと多様にもできるんじゃないかなって思っている。
考える理由として、そもそも「対話しよう」って声をかけて、集まれるっていうことが、現実世界でなかなか起こりえない。何かの目的があって、その中で対話が手段となる。対話が目的となる場づくりはなかなかムズカシイ。なので、対話の間に「何か」を置くことがあるといいなぁとつくづく思っていた。
例えば、僕が密かに敬愛する私設図書館のルチャリブロ
そこで司書をしている青木海青子さんは、人と人の間に「本」をおいてたりする。
吉田田さんのトーキョーコーヒーでは、人と人の間に「モノを作ること」をおいてたりする。
それじゃ、自分は何をおくんだ!!っていう話で。悩んでいるのが今。正確にいうと悩んではいないけれども。
自分が今まで傾倒してきた活動を、また別の視点から捉えることができると自分の幅も広がったり、面白い地平が見えてくる気がしている。ヒントとしては、なんか作りたい。形にしたい。見えるものにしたいっていう思いはある。そうすると、美術とか芸術っていいなって思うんだけど、自分の素養はなさそう。
面白そうなのは、保育の世界。子どもと接することも、絶えず自分の中の常識を塗り替える作業なのでおもしろい。あとは料理。これは、誰かと対話するっていうか、自分との対話が起こる。余計な力が入ってるときとかって、何かしらストレスを感じているとき。それはそうと、ウーウェンさんに料理を教わりたい。それくらいはまっている。
ランダムすぎるけど、対話の世界観を表して、全ての境界線を溶かしてくれるのは藤井風。
あとは別の角度から。ちゃんみな。いろんな当たり前とか、固定観念にもとづいたOSの振る舞いを毎回見直す気持ちにブッ刺さる。
だんだんいいたいことがよくわからなくなってくるけど、結局は、今持ってるもの、当たり前にある前提を何でちゃんと見つめなおせるかっていうこと。それは過去の延長の物差しに自分を置くのではなくて、無意識的に世間に作られた価値観をフォローするのではない。あんたは、今、何を感じて、何を考えてるんだいっていうことが「何」だったら、素直に、生成的に言葉にできていくのかっていうこと。
世界はノイズで溢れてる。自分に自分に真っ直ぐでいられることの難しさって往々にしてある。真っ直ぐで話せたら、きけたら、世界は、自分はへいわ。だいたいの課題は解決!なのかもしれない。
偶然みつけたけど、skaaiもいい!俺もお前も、一人しかいない。
間に「ラップ」もいいね。
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