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自意識

「自分の価値観とか自意識をあんなにさらけ出せるの凄いね」気まぐれでnoteを投稿するようになってから、たまに言われる。
初めはあまりピンと来なかった。
日頃1人でぐるぐると考えていることを、誰かとの会話以外の場所でアウトプットしてみたくなったのだ。

その手段が写真や絵ではなく、映像でもなく、音声でもなく、私にしっくりきたのは文字だった。
称賛されることが大好きな私は、顔も名前も明かしている場所に何も迷わずそれを載せた。

普段から言葉遊びが好きな自分には多少向いていたのか、「読みやすい」「面白い」と感想を貰えた。最近では同業者のモデル友達も会うと仕事の話よりも私のnoteやthreadsに触れてくれる。

そんな風にしてここ数ヶ月で「文章を書くこと」が私の趣味になり、自己表現の場となり始めた事を自覚した今一度、改めてお得意の自意識の開示をしてみようと思う。


↑以前投稿したこちらの記事を読んでくれた方は、前述の「同業者のモデル友達」が引っかかったかもしれない。
そう、私はこの記事で「3年契約の満了日2024年1月7日をもってモデル事務所を退所する」と豪語していたのだ。それもまた、素っ裸の自意識と共に。

退所を決めた理由はいくつか書いたが、全て本心だった。11月上旬の時点でマネージャーと話し合って、辞める事は正式に決定していた。

「521契約満了」で書いた退所理由を簡単にまとめると、「自分の存在意義をファッションモデルという軸で推し量ってしまう事から離れたい」「見栄と競争の街東京で、モデルという肩書きを失った自分を知ってみたい」そんな感じだった。

本格的にこの仕事を始めて3年。韓国で活動してみて初めて「モデル一本で食える働き方」ができた。
そこで自分に訪れたのは「さらなる情熱」ではなく「得体の知れないモデルへの執着からの解放」だった。

そんな変化があった韓国でのモデル活動から帰国すると、2か月後に契約満了日が迫っていた。
「事務所を退所したい」と伝えた私に対してマネージャーは「モデルは自分を商品にする仕事の中でも特殊で、距離の取り方次第でいつまででも続けられる仕事。だから0か100かで考えず、自分にとって都合の良い距離感で良いから続けたらどう?」と契約延長を強く提案してくれたが、それでは前述した退所希望の理由にそぐわない。だから断った。

だが結局、退所日まで1ヶ月を切ったあたりで心変わりして、マネージャーに連絡して契約延長の希望を申し出た。

なぜ契約を延長したのか。
時間を置いて考え直した結果、マネージャーがくれた意見に共感を覚え、せっかくの持って生まれたポテンシャルと、ここまでやってきたキャリアとスキルを捨て去ってしまうのは勿体無いから。と、退所を相談していた友人やマネージャーには説明した。便宜上は。

だが結局本心では、自分が何か特別であると思える肩書を捨て去るのに臆したのだ。
いざ自分がモデルでなくなると現実味を持った時、東京に自分が存在する意味。現在の自分の社会的地位に対して、モデルという肩書きが無くなった時の己の自尊心。それらを保てなくなる気がした。

実に情けない。私は社会的な評価などに左右されず、己の好奇心にのみ真っ直ぐに生きることを理想としているし、崇高だと感じる。
日々そんな風に考えながらも、いざとなればモデルにしがみついた自分。
実に面白い。人生とはつくづく、思う通りには生きられないものだ。
(ちなみに今でもモデル業は楽しいし好きだ。自分大好き称賛大好きな私にはある意味天職である。モデルとして、以前に比べてコンディション調整を怠ったり、仕事場で手を抜くようなことは全くない)

もしスケジュールに頭を悩ませる程に仕事が日々舞い込んでいれば、こんな事を考えることはなかったと思う。
だが自分は、そうはならなかったこの3年間をとても貴重な自分の財産だと感じている。

満を持してモデルとして上京してきたあの日から、思い通りにいかないモデル活動。その結果に日々乱された自尊心。それ故に考えた自分がモデルをやりたい理由。そして右往左往して答えを探す中で、行き着いた読書という趣味。そこから気まぐれで始めた執筆。今となっては、全てが貴重な私自身のピースだ。

好きなことを仕事にしてみた私は、好きであり、自信があったことで思うように評価されない現状と向き合い、その意味と弊害を知った。
好きなことに生活を乗せると、生活がままならなかった時、その好きに自ら違和感と疑問を抱くこととなる。

今は執筆が趣味となり、書く材料になると思えればなんでも楽しめる日々を送っている。かなりモデル業による自分への精神的弊害は減った。
だが、未だにキャスティングの結果や撮影が入っているだけでメンタルが安定したりする自分にうんざりする。
「お前には価値がある」と、社会から、他人から評価されないと自らを尊べないのかと苛立ちを覚える。
やっているだけで「何か特別な人」と評してもらいがちなモデル。実際はそれが別に何も特別凄くないと、散々理解して自分にも他人にも言っていたくせに。服を、自分を美しく見せるのが上手いだけのいち職業だと言っていたくせに。いざとなればそこにすがりつく自分。

こんな矛盾を抱えているからこそ私は、極力自分自身を名前も顔を明かしている場所で、ありのまま見せびらかす。顔も名前もわからない人がたくさんいるネット上で己を縁取って彩り、見せつけ、それで評価されてしまい、自尊心を形成なんてしてしまえば、実情とは異なる部分を自己認識するたび、自分を真っ直ぐ見つめられなくなってゆく。

超絶チヤホヤされたがりだが、チヤホヤされる条件に自分をコミットさせるつもりはない。限りなくそのまんまの自分でチヤホヤされたい。これが冒頭の「自分の価値観とか自意識をあんなにさらけ出せるの凄いね」への私の答えだ。

幸いにも現状自分はSNSやネット上でアンチコメントなるものを受けた経験がほとんど無い。まあ今は、それほど多くの人に見られているわけではないのが最大の理由だろう。
意図的には自分を彩らず、見せびらかしているつもりだからこそ、アンチを受けた時自分がどう感じるのか大変興味深い。


数十年前は存在しなかったSNSと言うこの海は、物理的距離や国境を超えて人々を繋ぎ、様々な情報を嵐の様に拡散する。だが時に「承認欲求」という胃袋を空かせた人間には、際限なく広がり得る幻を見せ、海の底へ誘う。

フォロワー数、いいね数、コメント数、再生数。
ネットと共に生きるが故に、それ以前と比べて何十倍、何百倍もの人間や情報に触れながら日々を過ごす我々。
壊れた動物「人間」が生み出す概念でしかない「金、地位、名誉」これらをもっと明確に数値化できる様になってしまった現代。

日々増えてゆく人間界にしか存在しないものに目を当て、思考し、それが我々に何をもたらしているのか。
動物と人間を両立せざるを得ない「ヒト」という生を全うするには、常にそれと向き合うべきだと私は考える。

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