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521契約満了

もう11月なのに、電車の中では半袖の人を見かけるほどにその日は暖かかった。
友人から抽選で外れたKIKO KOSTADINOVとASICSのコラボスニーカーをドーバーストリートで見つけたから買いに行こうと誘われ、その付き添いで昼前から銀座に来ていた。
諦めていたはずのスニーカーが手に入り、上機嫌な友人の横で携帯画面を開く。マネージャーに「お疲れ様です。今週どこかでゆっくりお話しできる時間が欲しいです」とLINEを送る。すぐに返事が来て、11月8日(水)15時に事務所で会うことになった。
約2ヶ月後の2024年1月7日で事務所との3年間の契約期間満了を迎える。
今のモデル事務所に所属が決まり、京都から出てきた私は東京に住み始めて3年になる。

2023年11月8日 (水)
やっと季節外れな暖かさが終わりを迎え、風や気温が冬の準備を始めたような気がする。
代々木上原駅で千代田線に乗り換え、乃木坂駅に向かう。
乗客はみな、自分の手のひらの中にある小さな画面に映る世界をじっと見ている。
日頃からその光景を見るたび、携帯電話がなかった時代は皆どんな風に過ごしていたんだろうと考える。
駅に着いたら、少し長いエスカレーターと急傾斜な階段を登るハメになるが、事務所に1番近い3番出口から地上に出る。
いつもは長い階段が、その日は少し短く感じた。
事務所を辞めます。そう伝えに行くために残り1段を登り切った。

3年半前(当時22歳)、今所属している事務所の面接で初めてこの駅に降り立った。
京都で暮らす乃木坂46ファンの友人に駅名の写真を送ると「乃木坂のメンバー歩いてたら写真撮ってきて」と返事が来たので「俺白石麻衣しか顔わからん」と送った。携帯をカバンに、緊張を胸にしまい、事務所の扉を叩いたのが懐かしい。
あの日はたしか雨が降っていた。

今ではもう開け慣れたその扉。到着するとその日はやけに慌しかった。
自分以外に4人ほどモデルが来ていて、マネージャーが体の寸法を細かく測ったりスケジュールの相談などをしていた。
うちは大半が外国人モデルなので事務所内には常に英語が飛び交う。
この状況では少し話しずらいなと思っていると、マネージャーが携帯とスケジュール帳を持って「下の応接スペースいこっか」と言ってくれた。今日話す内容をもう察していたのだろうか。

決して自分が事務所に莫大な利益をもたらしているわけではないが、大切にしてもらっているなと感じていた。
だからどう話始めようか少し迷っていたが、マネージャーが先に言った。「そういえばもうすぐ3年だね」

アメリカのロサンゼルスに留学していた大学時代(当時20歳)、街中で現地のモデル事務所にスカウトされてこの世界に入った。私のビジュアルに加えて当時付き合っていた韓国人の彼女と歩いていたせいもあったのか、だいぶ長い間事務所に韓国人だと思われていた。
というかアメリカに住んでいた頃はその勘違いが多すぎて、韓国人?とか韓国ハーフ?と聞かれたらたまにYESと答えていた。
「『ロサンゼルに留学しながら現地でモデル』カッコよすぎやろ」
それだけでもう何か特別な人間になったような気がした。
その勢いのまま帰国して東京のモデル事務所を探した。

今度は「東京でモデル活動をする22歳」と言う肩書を手に入れたが、現実は甘くなかった。
留学先で学生ついでにモデルをやっていた時とは違い、今自分はモデルをやるために東京にいる。仕事がない現実に言い訳が見当たらない。
最初胸を躍らせたその肩書は、無人島で握りしめる1 万円札のように、持っているせいで逆に自分を苛立たせた。

「好きなことにいつも挑戦している」
そんな仮面を被りながら、自分が人から凄いと言われることに固執していると薄々気づいていた。そしてそんな自分がダサくて嫌だった。
だから決めた。自分をダサいと思いながらもそれを欲しがってしまうなら、一度手に入れてみよう、なぜそれが欲しいのか知るために。

この秋、そんな思いも抱きながら私は3ヶ月間韓国で活動した。
3年間で初めて、モデル一本で食える働き方ができた。
別に世界中を飛び回るスーパーモデルになったわけでも、莫大な金を稼いだわけでもない。ただ、ずっと目標としていたモデルのみでの経済的自立。
それを実感した時、モデルに固執していた自分の中の何かが、淹れたての紅茶に落とした角砂糖のようにサーッと溶けて無くなった気がした。

そしてこの3年間で自分に課し続けた「足りない」が、治りきった傷口のカサブタみたいに剥がれて落ちた。
184cm 61kg 8.5頭身 股下85cm。この世界に入った瞬間からずっと足りない。身長が足りない。脚の長さが足りない。頬の痩け具合が足りない。仕事が足りない。
誰に言われたわけでもないのに、仕事がないと自分に足りなさを探す。
足りなさを隠すために年中ヒールブーツとハイウエストのパンツを履いて、身長と脚の長さを盛ることが癖付いた。変な食事制限も覚えた。
自分の凄さを際立たせたくて入った世界で、いかに自分が凄くないか思い知らされた。

モデルの仕事が徐々に増えて、韓国でやっとモデルを生業にしていると自分でも思えるほど働いた。結果生まれた感情は、達成感や更なる情熱ではなく自分への「許し」だった。
自分は別に足りなくないと思えたのかもしれない。
最近はプライベートでも常にモデルらしく見えたいと思うこともあまりなくなった。

東京では急なスケジュール変更が多いモデル業に対応しやすいアルバイトで、足りないお金を稼いでいる。この生活を続ける限り、モデルが自分を推し量る主軸になってしまうことも察しがついてきた。
だから、バイトとセットでないとやれないのならモデルを辞めようと思った。

そして何より「この見栄と競争の街東京で、モデルという肩書きを失った自分はどうなるのか」にも興味が湧いた。

こんな話をマネージャーにした。
「25歳」年齢的にも将来に対して不安や悩みを抱えやすい時期であることや、私の性格にも理解を示して快く受け入れてくれた。

別にモデルを嫌いになったわけじゃない。
自分の中で明確になったモデルへの動機。それと合わせてバイトをしながら取り組む今のやり方は、自分にとって続けるべきものでは無くなった。

そのどちらか、もしくは両方が変わる時が来たらまたモデルをやりたい。
上京する前に思い描いていたモデルライフとは大きく異なる3年間だった。
でもその3年間は、自分自身の中に湧き出る「やりたい」「欲しい」「すき」その理由と向き合わせてくれた貴重な時間だった。

ありがとうございました。と伝えて、フランス語で521と名乗るその事務所を後にした。
長い階段を降りて、乃木坂駅のホームに向かう。

そういえば事務所の名前がなんで521なのかは3年いたけどいまだに知らん。

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