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過ちを繰り返さない『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』〜読書感想文#41の①

この本の著者は金谷武洋。カナダで25年日本語を教え続けた先生です。
私はよく、敬語を使うことで上下関係が明確になり主語を省くことができます、と説明していますが、著者によると、「日本語に主語はいらない(p.143)」のだそうです。
省くことができるというのは、本来必要ということですが、それは英文法を基本に考えるからそういう発想になるのであって、本来の日本語に主語は不要なのであり、主語がないと意味が通りづらいときなど、必要に応じて付けることができるというのです。

このように書くと、ゼロから100で考えたときの49か51かというような微妙な違いにこだわっているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。「私」なのか「あなた」なのか、はたまた「彼」「彼女」なのか、それも単数なのか複数なのかまで含めて、常に「誰が」を意識している言語と、「誰が」よりも、何をするのか、それはどのようであるのかを共に味わう言語であるのかの違いであると言いたいのだと思います。
それを著者は以下のようにまとめています。

英語は「(誰かが何かを)する言葉」、日本語は「(何らかの状況で)ある言葉」だ

P.19 (太字著者)

また結論として、

日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉

p.24(同)

そして、

お互いを見合うのではなく、心を通わせるために二人が同じ方向を見ようとすると、不思議なことが起きます。
相手と並ぶことで相手が視界から消えてしまい、見えなくなるのです。

P.30

西洋でカウンセリングが発達するのは、日本では友人関係やご近所さんで自然にやっていることを補わなければならないからなのかもしれません。


独り言

そういいながら、最近は日本語が共感の言葉である実感を感じられなくなってきました。対立をこそ良しとするような文化は、日本人にとっては借り物です。皆が武器を取って戦っていた戦国時代ですら、戦いが終われば報復合戦を避けるために解死人を差し出していました。解死人は相手の好きなように殺されるわけですから、脅されて意に反して連れていかれる解死人なら渡した側に禍根が残ります。身内である誰かを殺されるために差し出すのですから、どれほど辛い選択であったろうと思います。だから、差し出す村側の全員が納得するまで、3日も4日もかけて話し合って決めたのでしょう。そしてそれは、村内でも禍根を残さないための努力であったでしょう。
いっそ私がという思いをしながらも誰を差し出せば相手が納得してくれるかを考えるという行為には、殺し合いをした相手に対する共感が必要であり、それは優しさとか思いやりという言葉では言い足りないものです。


そんな著者が、「日本語は世界を救う」と題した章で取り上げているのが、広島の平和公園にある慰霊碑に刻まれた言葉です。

安らかに眠ってください 
過ちは
 繰り返しませぬから

この主語が誰なのか、というのが、論争にもなったそうです。

これについて著者は以下のように述べています。

「誰の過ちか」が明らかにならない方がかえって日本語らしくていい

p.207

碑文のことばを作った雑賀教授は、主語を「私たち全世界の人々」と捉えていたようです。
その捉え方自体は、人種も国籍も、敵も味方も関係なくどこかで誰もがつながっているという日本語の人間観に沿ったものですが、それでもしかし、それを石碑に刻んでしまうと、そうは考えない人をまるで断罪するような、もしくは人に強制するようなニュアンスを持ってしまいます。

そうではなく、日本語は人を責めず、自身の責任を自身に問う、そういう言語であり、その粋が敬語であると考える私の立場からするならば、どの国のどんな人であれ、この碑の前に立った人が「あぁ、本当に繰り返してはいけない。繰り返さないようにしよう」と感じてくれたらいいと思います。

今回だけでは語りきれぬこの本の魅力を、次週も引き続きお伝えしたいと思います。
それでは、また。


【実戦敬語概論】立場と責任を明確にする敬語で、信頼される自分になる


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