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他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない

テレビの街頭アンケートで「憲法改正が必要だと思うか?」と聞かれて「Yes」と答える人たちのうち、9条の改正案を読んだことがある人は何%でしょうか。

加えてこれまでの自民党草案を見れば分かるように、憲法改正派が変えたいのは9条だけではありません。

それに対し、多くの国民は9条以外も変えたいと考えている人たちがいることすら知らないのではないでしょうか。
それはなぜか。
興味がないからです。

多くの人にとっては消費税やインボイス制度、金利や物価、ワクチンや最低賃金、保育園や介護問題などなど、憲法改正よりよほど重要な問題がたくさんあります。

そんな中、憲法改正に望みをかけている人たちがいます。憲法を変えれば日本が変わると思っている人たち、日本を変えたいと思っている人たち、言ってみれば、今の日本では生きづらく、法律ではそれを解消できないと思っている人たち。ましてコミュニケーションでそれを解消できるなど夢物語。もうそれしかないのだと追い詰められている人たち。

どうも憲法改正論者の話を見聞きすると、アメリカや中国に、そして彼らが呼ぶところの自虐史観を信じている一般国民に、自分の抱える誰かへの憎しみを投影しているような気がします。
そして、本来憎むべき大切な誰かを守ろうとしているような気がします。
考えすぎでしょうか。

でも思い過ごしでないなら、それはたしかに社会の問題を照らしているのです。自分さえ幸せであればいいという思いから、自民党議員が統一教会に取り込まれ、一方で山上のような宗教被害者を追い詰め、彼は日本の元総理を殺すという加害者と化してしまいました。

こんな日本が理想的な社会であるとは思いません
内閣府の調査によれば、「満40歳から満64歳までのひきこもりの出現率は1.45%で、推計数は61.3万人います。
ひきこもりでなくても、人づきあいがあっても、結婚して子どもがいても、働いて出世していても幸せだと実感できない人もいるでしょう。
自分が幸せだと思えない人の中には幸せそうな人を見るだけで傷つく人もいます。ある人は私に、笑う人はみんな悪人なのだと言いました。
「人前で笑う人は、その笑顔で人を傷つけていることに気付いていない」
もちろん、この人を傷つけないためにみんなが笑ってはいけないというのは無茶です。でも、こういう傷ついた人が隣にいるということを知らなくてはいけないし、自分一人の力ではどうにもならない人をそのままにしておくことは”その人の自由だから”とは少し違うのではないでしょうか。

民主主義とは、”自分さえよければいい主義”ではないはずです。
自由には責任が伴います。その責任を考えないなら、自由は取り上げられてしまうかもしれません。その先には、争いや恐怖が待っています。

今日は広島に原爆が投下された日です。
平和について、祈りたいと思います。

世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。