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憲法の無い場所~家庭

これは、書こうか書くまいか少し悩んだ。
私の他の記事に賛同してくれる人も、これは賛同してもらえないのではないかと不安だったからだ。

しかし、報道で宗教2世たちが親の信仰を押し付けられるのは憲法違反だと訴える姿を見て、やはり書こうと思う。

そもそもこの記事を書こうと思ったきっかけは、やはり統一教会絡みだ。(だが、今回は統一教会を問題視しているのではない。)

各自治体に「家庭教育支援条例」の制定を働きかけ、実際に令和4年9月3日時点で、都道府県が10団体、市町村が6団体制定していることが確認されている。

私が見た報道では、この条例に対して「家庭に政府が口を出すな!」とばかりにプラカードを掲げて抗議をしている人たちがいた。私はこれにとてつもない違和感を覚える。
もちろん、家庭での教育方針を国が示し、家庭はそれに従うべきと言いたいわけではない。憲法によって守られるべき人権は、子どもにも与えられるべきだという話である。

日本の殺人

あなたは、殺されたくないと思ったらどんな場所を避けるだろう。
銀行強盗のようなものを想像するかもしれない。電車の中で放火した人もいた。秋葉原で無差別殺人も行われた。学校に刃物を持って乗り込み、生徒を守った先生が被害者になったケースもあった。
そのように考えると、家から出たくなくなってしまうかもしれない。

しかし実は、日本における殺人と傷害致死の半分は、親族によって行われているということをご存じだろうか。

https://www.moj.go.jp/content/000098462.pdf

殺されたくなかったら、一刻も早く家庭から逃げ、親族と縁を切ることが論理的な選択といえる。こんな国で結婚しろ家庭を持てというのは、武器も与えられずに戦場へ送り込まれるに等しい。

では、強姦や暴行、傷害が少ないのに、家庭という場所ではそれらを飛ばして一気に殺人につながるのはなぜだろう。
これは私の推測に過ぎないが、実際は、もっと多いのだ。殺人や死に至る傷害だけが警察の介入を防げなかっただけで、家庭内の問題はそれぐらい大事にならない限り表面化しないと見るべきではないか。

家庭内は外から見えない

家庭を戦場になぞらえるなら、きっと「何をバカなことを言っているんだ」と思う人がいるだろう。だから私も書くべきか迷った。

なぜ、このような人がいるかと言えば、大半の家庭は親が子どもを大切にし、夫婦は互いを尊重している幸せな家庭だからだ。
もちろん、夫婦げんかもあれば親子げんかもあろう。とはいえ、家族が好きで家を自分の居場所と思い、自立してもなおそこを帰る場所と思える。それが家庭に対する一般的なイメージだからだ。

だからこそ、そこから外れた家庭についてイメージがわかず、自分の子どもを殺してしまったような報道を見ても「それは特殊なケースでしょ」「ひどい親がいるもんだねぇ」と自分とは違う世界の話を聞いているようにしか感じない。

そしてもっと恐ろしいことには、家庭を戦場だと感じるのは弱者の側のみであり、強者の側から見れば家庭は楽園だからだ。

家庭内では外が見えない

一方で、子どもは他の家庭を知らない。
しょっちゅう親から暴力を受けていれば、それが親だと思う。
レイプされていても、それを暴力だとは理解できない。

子どもは、生殺与奪の権を親に握られている圧倒的な弱者である。
親は、「うちのしつけに口を出すな」「私の子どもは私が育てる」と公然と言い放つ。本来であれば、このような関係が反抗期を機に少しずつ変わっていくのが正常な親子関係であるが、それらを無視して子どもを私のものと考える人たちがいる。

子どもを自分の結婚や離婚の条件として利用するばかりでなく、子どもは家出をしても親権を理由に連れ戻される。

よしんば家庭裁判所までこぎつけても、調停委員に「お父さん、やりすぎちゃったって反省してるから、許してあげようね」と言われてまた同じ家庭に戻される。子どもは誰も助けてくれない現実の前に自尊心を打ち砕かれ、希望も夢も持つことができなくなる。

これのどこが人権だろうか。

子どもの人権

人が人に蹴られ、殴られ、バカだの出来損ないだのと罵られ、時には食事を抜かれたり、冬のベランダに裸で放置されたり、友人関係を制限され、プライバシーを暴かれたら、いったいどうするだろうか。
健全な心理状態が保たれていれば、そこから離れる。
それが職場なら、辞める権利がある。
夫婦なら離婚する権利がある。
状況によっては、警察へ行くこともできるし、相談窓口もある。
さて子どもには、いったいどんな権利が用意されているだろう。それを誰が教えてくれるだろう。

そんな大げさなと思われる方もいるだろう。

でも、こんなところを見たことはないだろうか。

子どもが親に笑いかけ、必死に愛想を振りまくのを冷たく見下ろす親。
「痛い」と泣く子どもを「痛くない!」と叱る親。
子どもの言葉に「子どものくせに」「あぁうるさい」と耳を貸さない親。
「あんな子と遊んじゃいけません」と子どもの友人関係をコントロールしようとする親。
自分が良いと思う学校へ子どもを必死に入れようとする親。

その中に、今回2世信者が訴えている親からの信仰の押し付けもある。

勘違いしてほしくはないのだが、自分が思う幸せを子どもに与えようとすることは自然なことだろう。それを規制してはいけない。
私が主張したいのは、子どもが「それは私には幸せではありません」と言える環境も同時に守るべきだということなのだ。

それは何も子どもをわがままを全部聞き、子どもの云う通りにすべきということではない。そこで、意見の違う者同士がコミュニケーションによってお互いを理解し、単なる妥協ではない解決策を手探りで見つけていくということ自体が、子どもの自尊心を育むことにつながり、異なる他者を尊重しつつ共存することを学び、民主主義を守ることにつながる。

そのためには、家庭を治外法権にしてはいけない。
家庭の中こそ、憲法の精神によって人権が守られる場であるべきだと強く思う。

憲法該当箇所

第十三条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十八条 

何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第十九条 

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

第二十一条

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十二条

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

第二十三条

学問の自由は、これを保障する。

第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

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子どもに教えられたこと

世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。