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もう遅いのかもしれない『アフター・リベラル』~読書感想文#23

政治・経済の苦手な私には、この本はかなり難しかったのですが、これは伝えなければいけないことが書いてあると思いましたので、ご紹介します。


敬語の前提が崩れるかもしれない

私は常々、敬語は相互尊重だと言っています。先日も「敬語は相互尊重のために使う」「日本の敬語は相対敬語です」とお伝えしました。

しかし、近いうちに、相対敬語から絶対敬語に移行するかもしれません。

五つのリベラリズム

この本の難しさを筆者自身も分かっているのか、ところどころ、話を整理してくれているところがあります。ここでは、一口にリベラリズムといってもいろいろなものがあるとして、思想史を専門とするマイケル・フリーデンの分類を紹介しています。8割がた自分のためにではありますが、290~292頁を簡単にまとめます。
(なぜこれが重要かというと、この五つが相互に不適応を起こして、様々な問題につながっているからです。)

①政治リベラリズム
「王権に対する個人の抵抗権や所有権守ろうとする潮流」であり「日本でいえば立憲主義的な考えを重視するリベラリズムの源泉」。

②経済リベラリズム
「商業や取引、貿易の自由を唱える」。「市場を中心とした自由」。

③個人主義リベラリズム
「個人の能力を信じ」る立場。「個人の能力はその個人によって自由に行使されなければならないとする」。

④社会リベラリズム
「戦後の新たなリベラリズム」。「社会保障や教育の重視、市場の規制などの政策を生む一方、人権が守られる社会を志向する」。

⑤寛容リベラリズム
1960年代に生まれたもので、「民族や宗教、ジェンダー的なマイノリティの権利を擁護し、寛容の精神を説く」。

民主主義を否定する世界

香港で民主派47人が起訴されました。

ミャンマー軍は抗議デモに対し、実弾で抑え込んでいます。

アメリカでは、新政権発足後の100日間はハネムーン期間として批判を控えるのが通例だが、選挙で負けたトランプは早やバイデン大統領の批判を繰り広げています。

中国とミャンマー軍とトランプが同じことを主張しているわけではありませんが、民主主義を否定する流れが無視できないほど大きくなっています。

その他にも、オーストリア、イタリア、フランス、オランダ、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、スイスでも同様の流れが見られます。

では、同じ主張でないのに、今、流れを同じくしているものとは何でしょうか。

「法と秩序」を重視する権威主義

それを、この本では

経済や技術の発展、情報・教育水準の向上などによって、とりわけ戦後世代の「脱物質主義的価値観」、すなわち帰属や承認、愛情、自己実現などの次元が重みを増していくとした。そして、それまでの安全や治安、経済成長や賃上げなどを求める「物質的な価値観」は徐々に意味を失う(p.108)

というアメリカの政治学者イングルハートの見立てを紹介し、それは、

「法と秩序」を重視しているとまとめられる(p.114)

としています。さらに、下記のように言っています。

脱物質主義的な価値観は、何が正しいかについて論争をする必要はない。それは正しいと信じるか否か、アイデンティティと価値観の問題だからだ。それだけに議論は激しくなり、社会を走る分断線はより深いものとなる。(p.123)

例えば限られた予算を誰にいくら割り振るのが正しいのかという論争であれば、立場が異なれば正解も異なるので、話し合って決めるのは大変ですが、「人の意見を批判するのはよくない」という主張については、そう思うかそう思わないかだけの話です。これは、議論ではなくもはや信仰の問題であると、そういう話です。

アメリカ大統領選においてトランプ側は選挙で不正ができる状態だったから民主党が選挙で不正を働いたと主張しますが、不正ができるのであれば共和党側も不正を働いた可能性があるはずです。しかし、そんなことはどうでもいい。信じることができればいいのですから。

「人の意見を批判するのはよくない」という主張について、批判されて嬉しい人はいません。もし批判をする必要のない世の中が実現したら、さぞ皆が幸せに暮らせることでしょう。この耳当たりの良い言葉を受け入れたなら、その体制を批判することはありえず、もし批判したならその瞬間、その体制から”破門”されるのです。

異分子は”破門”されてしまうがゆえに、その体制には傷がつきません。

そして「人の意見を批判する人たち」は自分たちの敵となり、身内の結束は固まっていきます。

「人の意見を批判するのはよくない」党を想定した単なるシミュレーションですが、こんなことになれば、それは社会全体がカルト化する状態と言ってもいいのかもしれません。

森氏の蔑視発言に対する違和感

森氏発言に見られる世論の反応に対する私の違和感は、たしかにこういうことなのかもしれません。

ジェンダーの問題を、それも女性についてのジェンダーを論じるのであれば、女性が語らなければならないのに、経済の問題・政治(外交)の問題としてきわめて男性的に糾弾される。そして、ジェンダーの被害者として家庭の中で殴られ罵られ犯され奪われ殺される女性たちのことには一切触れられないままジェンダーという言葉がもてはやされ、トップが女性に替わり一件落着する。
そこに、悲惨な現実とは関係ない恵まれた女性たちがここぞとばかりに合流する。

まるで、子どもが「先生が●●しちゃいけないって言ってんたぞ」「お母さんが●●の子とは遊んじゃいけないって言ってたんだもん」と言って●●に該当する子どもをからかい、いじめる構図と変わりません。
(お母さん=世界的標準のポリティカルコレクトネス)

ここでは、「ジェンダー」という誰もが分かったような気になる言葉に「正解」を与え、本質的には何も変わっていないのに、それに従えば誰もが「正しい側に居られる」という状況を作っています。

そう考えると、権威主義は、子どもで居られる社会を与えてくれるのかもしれません。

この本の別のページには、このような記載もありました。

アメリカの情報分析機関スーファン・グループ(TSG)の報告書は「ジハーディストの宗教についての知識の多くは初歩的で、それゆえ指導者の権威を疑わず言われたことにそのまま従う傾向がある」と指摘している。(p.205)

(ジハーディストとはイスラム教の聖戦を謳って自爆テロなどに走る人のことです。)

今は、何でも知ろうと思えば調べることができます。
一方で情報は膨大すぎて、全ての情報にアクセスすることは不可能です。

例えばこの蔑視発言によってジェンダー問題について調べた人が何パーセントいるのでしょう。先日蔑視発言についてのイベントに参加しましたが、そのときいた十数人の中にはいませんでした。

戦争とジェンダー

この本はジェンダーについて語っている本ではありませんので、話がずれますが、もう少々お付き合いください。

戦時中の映像で、女性がこぞって出征軍人を見送っているものがあります。見たことがある方、いらっしゃいますか?国防婦人会と呼ばれるものですが、あれは女性が思いついたものです。

女性からあのように見送られることで、国のために死のうという決意を強めた男性は多かったのではないでしょうか。
出征する息子を持つ母親をなだめ、死んだ息子のために悲しんではいけない、流す涙は嬉し涙である、お国の為だ名誉なことだと説得して回ったのも女性でした。

自分の記憶で恐縮ですが、昔見たドキュメンタリーでは、家の中で姑と暮らす鬱積した気持ちがこの活動をすることで晴れ、やりがいを感じていたと言っていました。何をするかではなく、家の外で活躍し、国や軍から認められることが嬉しかったのです。

権威から与えられる幸せ

権威が喜ぶ形の地位向上であれば、容易に手に入ります。(今、管理職になりたいと手を上げる女性は、採用されやすいでしょう。)そして満足感が得られます。加えて、権威の後ろ盾があれば、相手への共感が失われるのは、ミルグラムの電気ショック実験でも証明済みです。

ジェンダーと離れた例で説明すれば、働き方改革はどうでしょう。
残業が減り(=給料が減り)、副業が認められるようになりました。
自由な時間が増えた。選択肢が増えた。自由な働き方ができるようになったといえば聞こえはいいですが、給料が減った分を他で補っているだけという人も一定数いるはずです。しかも、時間外労働なら基本時給の1.25倍から1.6倍もらえるはずですが、●倍どころか基本時給よりも安い値段で働くケースも多いでしょう。もし働きすぎで体や心を壊しても、そもそも残業していないので、労災の対象にはなりません。

社畜の代わりに自由な働き方を手に入れた私たちが失ったものは、得たものに見合うのでしょうか。それは、失わなければ手に入れられないものだったのでしょうか。

歴史認識と対立

本書に戻りましょう。
この本(p.189)では

世界の歴史認識をめぐる争点は内外で増えていくだろう。

と予言します。それは、

記憶を作り上げていくことが共同体の正当性を証明することになるから

なのです。(もし日本書紀や古事記にイザナギとイザナミが台湾や朝鮮半島を作っていたと解釈できる余地があったら、私たちは小学生のときからそれらを叩き込まれていたかもしれません)

続けて、

しかし、その安易な道を突き進んでいけばいくほどに、私たちは他者と共有するものを喪失し、自らの存在理由がわからなくなるという隘路に陥る

と述べています。では、どうすればよいか。

相手の罪を忘却するとともに、自らの罪も忘却するという、歴史認識についての和解の作法が編み出されなければならない。

新自由主義と政治

別の頁では以下のようにも書かれています。

個人が自分のみ(あるいは自分の問題のみ)に関心を集中させてしまえば、他人の問題や不幸は、自分との共通性を持たないかぎり、政治の対象とならない。(p.270)

見方を変えれば、自分の1の利益のために他者の10が犠牲になっても気にしない政治の在り方とも言えるかもしれません。

私が政治経済に疎いことが原因なのかもしれませんが、街に増える空き店舗にもかかわらず、上昇し続ける株価が、とても不気味に感じられます。

また、私がこうして世界中の誰もが読めるところに自由に文章を書いているように、誰でも意見を言えるようにはなりました。
中には大きなうねりを生み出すものもあります。けれど、そのうちの多くのものが政治への不満に対するガス抜きで終わり、政治そのものは何も変わりません。大きなうねりはCMに採用され、消費行動をあおられて終わります。

自由な働き方という美しい言葉のもと、非正規雇用は社会に定着し、何十年働こうと給料が上がることはなく、ウーバーのようななんの保障もない働き方が増えていきます。

そんな中、多くの人がいつの間にか中流から貧困層に落ち、持てる者はどんどん富み、格差が広がっていく。コロナが終息した頃、国内は分断しているのではないでしょうか。

分断され、社会に不満を抱えた人たちに「あなたたちが苦しんでいるのは●●のせいだ」と言われ、それさえなければ(もしくはあれば)幸せが取り戻せると思わされたなら、しかも、同じ苦しみを抱え、考えを共有できる仲間もできたなら……。

いつ日本にもトランプのような人物が現れてもおかしくはありません。

「好み」ではなく「信念」を

筆者は法学者サンスティーンの考えを紹介しています。(p.272~273)

自由とは好き嫌い以前に好き嫌いやその根拠となる信念を形成することのできる自由として捉えなおすべきという。自分の「好み」ではなく、「信念」を自分の手で作ることこそが自由だと定義されるべきだ、と。ここでいう信念とは個人的なものではなく、社会的なものであることが条件となる。だから、そこにはじめて個人を越えた自由や正義がみえてくる。

具体的には、自らを一度相対化し、自らの属性を客観視できるようになって、それにとらわれないものの考え方を手に入れたうえで、

何を選択するのかという主体性を取り戻すことになる。それは「個人が王座につく」のではなく、「個人と主体」との差異を、自らの手で埋めることを意味する。

ここにおいて、ようやく敬語との接点が見えてきました。

敬語は、TPOをわきまえて使います。
つまり、自分の置かれている環境はどんなものなのか、上下関係はどうなっているのか。自分の責任範囲はどこまでで、相手の責任範囲はどこまでか。
自分はここで何を得たいのか、そのために何を表現しなくてはならず、何を表現してはいけないのか。
現状を客観的に把握し、他からも自分の感情からも距離を取り、自分の大切なものを見極め、それに沿うために自分の行動を選ぶためのツールです。

筆者は、個人の自律と、社会的な連帯との重要性を述べた後、この章を、次のように締めくくっています。

このような相互関係のなかに集団と個人を捉えることができたとき、人は初めて自由を獲得する。(p.279)

最後に、筆者が政治について語っている言葉をご紹介します。

政治とは、異なる者との間の共存を可能にするための営みのことだ。そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない。文人カミュは、この闘争と平等のバランスは、自らの人間性を剥奪する相手に抵抗するとともに、自らによる相手の人間性を剥奪しようとする意志に抗することにある、と端的に指摘している。(p.300)

私たちは間に合うのでしょうか。


世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。