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#2 私にとってサッカーとは 前編

こんにちは〇
めでたく2週連続の更新です👏

今回は、私にとって「サッカー」とは何ぞや、について文章を書いていきたいと思います。

一言で言ってしまえば「すべて」です。
サッカーという存在が、今までの私の人生の大部分を占め、大きな影響を与えてきました。

そんな「私」と「サッカー」についてもう少し細かく紐解いていきます。

1. サッカーとの出会い

私の両親は、どちらも武道をやっていました。
特に、父は格闘技も好きだったので、小さいころはボクシングジムや剣道場などを何度か回った記憶があります。

ただ、どうもピンとこなかったのです。。笑(すまぬ父よ。。。)

そんな中、5歳の時に私は現在の実家がある町へと引っ越しました。
引越しをしても、引き続き隣町の幼稚園へ通っていた私は、なかなかそこの町で友達を作る機会がありませんでした。

ある日の夕方、母から
「近くでサッカー教室が始まるみたいだけど、やってみる?」
と言われたのを覚えています。
いとこが、そこのサッカークラブのOBだったこともあり、私は二つ返事でサッカー教室に行くことを決めました。シンプルに楽しいだろうな、という幼稚園生の勘というヤツです。笑

サッカー教室は年間を通して行われ、最後のまとめとして「わんぱくサッカー大会」なるものに出場することになりました。初めての対外試合です。

ポジションは試合会場で決め、その中でもキーパーは立候補で決めることになっていました。何を思ったのか全く覚えていませんが、勢いよく手を挙げて立候補したことだけは鮮明に覚えています。笑

やる気十分で意気込んだ大会、結果はまさかの全敗。
チームも無得点、完膚なきまでに叩きのめされました。

負けるというのはこんなにも悔しいのか。
「くやしさ」を覚えた瞬間でした。
同時に「俺はこれからキーパーとして生きていく」
と決めたきっかけでもありました。笑

ここでこの決断があったからこそ、運動神経がずば抜けて良いわけではない、足もそこまで速くない私がこんなにも長くサッカーをプレーできた、サッカーに関われたのかなと思っています。

2. 衝撃を受けたプロのサッカー

小学校1年生のころ、学校から帰ってきていとこ家族と共に国立競技場へ向かいました。

初めてのプロサッカーの試合「鹿島アントラーズ vs Manchester United」を観戦するためです。当時、もちろんプロサッカーのことは全く分からなかったのですが『すごい試合』だとは聞かされていました。
特に、Manchester United の方は名門中の名門である、と。

鹿島アントラーズには曽ヶ端選手、本山選手、岩政選手や小笠原選手など、対するManchester United は、若きC・ロナウド、ギグス、サハ、ファーディナンド、G・ネビルなど、錚々たるメンバーが出場していました。

結果は2-1で鹿島が勝利した「らしい」のですが、正直に言うと結果はあまり覚えていません。しかし、違う側面が私の脳裏にはっきりと焼きついていました。

まず、大勢の人が1つの場所に集まる場所へ行くことが初めてだった私は、声を上げて応援するシーンやブーイングをあげるシーンに訳も分からずただただ圧倒されていました。

1つ1つのプレーで湧き上がる観客、特に交代でルーニー選手がピッチに入ってきたときの歓声は忘れられません。

大人はこんなに足が速いのか、大人はこんなにボールを遠くへ蹴れるのか。サッカーはこんなに人を魅了するのか。
「プロサッカーってすげえんだな」
の言葉だけが頭の中にありました。

サッカー選手になりたいという目標がおぼろげながらにできた出来事でした。

その後、「ヨーロッパサッカーパーフェクトガイド05-06」という本を本屋で購入し、ひたすらに選手の名前を暗記していたことを覚えています。笑

3. サッカー選手を目指した学生時代 ①

小学校中学年の頃でしょうか。父からこんなことを言われました。
「遊びでやるのか、真剣にやるのか、どちらか選べ」

父よ、それは少し早過ぎないか。。
とはいえ、やるからにはこちらも真剣に上を目指してやりたいため「真剣にやる」と返事をしました。

プロサッカー選手を具体的に目標化したのはその時です。

その後、小学校6年生の時には、夏の県大会の決勝でファナティコスというチームに負けてしまったものの、2位で関東大会へ進むことができ、それなりの成功体験は得られることが出来ました。
まだまだ上を目指したい、プロになりたい。
思いは一点集中でした。

中学のクラブを選ぶ際、私はどうしてもJクラブのアカデミーにこだわりました。プロへの近道はJクラブだと思ったことやGKコーチのいるチームでやりたいと思った他、どうしてもスポンサーが入ったユニフォームを着て試合をしたかったのです。笑(今はユース年代でも街クラブを含む多くのチームが、ユニフォームやトレーニングウェアにスポンサーが付いていますが、当時は珍しく、Jアカデミー所属の選手がとてもかっこよく見えていました)

いくつかのセレクションを経て、ザスパ草津(現ザスパ群馬)のU15へ入団が決まりました。

当然、試合に出て活躍したいと思っていました。しかし、同学年にはもう1人キーパーがいて、中学1年生の頃は彼がメインで試合に出場していました。
言わば私はサブキーパー。なかなか試合に出れず、苦しい日々が続きました。初めての「挫折」でしょうか。

泣きながらコーチに電話をして、なぜ出れないのかを聞いた時もありました。ただ、試合が出れないときでも、GKトレーニングだけはとても楽しかったです。トレーニングを通じて、試合で使える技術トレーニングや、守備の戦術トレーニング等、だんだんとうまくなっているような気だけはしていました。

それらが自信へとつながり、2年生で徐々に出場機会をつかみ始め、3年生ではコンスタントに公式戦に出れるようになりました。しかし、3年間を通じてリーグ戦では敗戦が多く、リーグ降格も経験したため、試合には出れるようになったものの、試合で勝つことの難しさをひしひしと感じていました。

また、小・中学生の間はありがたいことに、県選抜や関東選抜、中学生の頃はJリーグアカデミーキャンプへの参加やGKキャンプ等、比較的多くの選抜活動に参加させてもらっていました。

サッカーを通じて、普段なかなかいくことのない地域の選手との交流ができたことはとても新鮮だったことや、活動を通して今の自分が選手としてどのレベルにあるのか、他の選手は自分と比較してどうなのか、小・中学生なりに定期的に自己確認できたことは、今考えるとものすごく重要で貴重な機会だったと感じます。

同時に、自分の現レベルの限界や、周りにはもっとうまい選手がいることを認識できたことは、プロサッカー選手がそう簡単になれるものではないこと、つまり、今の自分とプロサッカー選手のレベルの具体的な「距離感」の理解にもつながりました。

このように、割と「順風満帆」に行った小・中学生年代から、高・大学生年代の苦しい7年間が始まろうとは、この時はおもってもいませんでした・・・


後編へ続く


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