『アイ・アム まきもと(2022)』を観ました。
この作品もウイルスの蔓延で突然人が亡くなるようなことがあって、「いつか来るかもしれない」と思って遠くにあった死というものが「明日倒れて明後日亡くなるかもしれない」と身近になって生まれた作品だと思いました(『川っぺりムコリッタ』もそんな作品でした)。
いつもの演者:阿部サダヲと監督:水田伸生の組み合わせではありますが、脚本がいつものテンション高めな宮藤官九郎さんではなく劇団を主宰している倉持裕という方で、作品の空気が今まで見たことがなかった感じがして素晴らしかったです(クドカンさんも素晴らしいです)。どちらかというと静かめな作品なのでゆっくり時間の取れるタイミングで落ち着いて観ることをおすすめします。
人には出来ることと出来ないことがあって、出来ないことはがんばって克服してちゃんと出来るようにならないと厳しい世の中では生き残っていけないみたいな考えをよく学校や職場では強いられてしまう。そうやっていくことでどんどんみんなの出来ないことが減ってくるかというと、逆に生命の逆襲のように、どうしても出来ない人というのが増えていっているように感じるのはなんだか不思議である。
私が気味が悪いと感じる言葉に「ガンバレ」と「カワイソウ」がある。
「負けちゃだめだ、もっと頑張らないといけない!」とか人に言われると、「なんで頑張らないといけないんだ?」「誰になんで負けたらダメなんだ?」と疑問だらけになる。
「あの子は可哀想なんだから、親切にしてあげなさい!」も、「なにがどう可哀想なんだ?」「そういうのを本当に相手は望んでいるのか?」と疑問だらけになる。
都会では「見えるもや結果がすべて」って感じがして、都会から離れて自然の多い場所にいくほど「きっとあなたの行動を誰かがちゃんと見てくれてるよ」とか見えないものの存在を受け入れている人が多いような気がする。特に沖縄に住んでいる時にはかなり強く見えないものの存在を感じた。
沖縄の言葉に「ナンクルナイサー」というのがあるが、これは最初から何しないでいいっていう呑気な意味ではないそうで、大変なことになったりして壁にぶちあたった時に、「そんなに自分を追いつめて焦っててもいい方向にいかないから、肩の力を抜いていった方がいい」って意味だそうである。
人の心や、相手への気持ちや、妖怪とか魂(たましい)なんかは “見えない” ではありますが、今作はそういう「 “見えない” ものも大事していきたいなあ」などと思わせてくれる作品でありました。
牧本(まきもと)のクセみたいなものに「牧本今こうなってました」と両手を狭く前に出す動きがありますが、これって小さい頃から何度も自分がおかしな空気にしてしまった時に、その場の空気をなんとかするために編み出されたものではないかと思いました。沈黙が怖くてなにか話して会話を埋めるみたいな、緊急避難的な行動がクセになったように感じられて、なんだか胸が締め付けられる思いでした。
あと牧本さんは相手の気持ちを察したりすることはないと思うので、「あなたのそのお気持ちわかります」っていうのはなんだか「それはないし、彼は言わないだろう」と私の中ではノイズになってしまいました。
あと無縁仏に「なんだかカワイソウに思って」というのはやってはいけません。そういう気持ちで無縁仏に近づくと私なんかは大勢が背中に乗っかってきて歩けなくなります。「この人は私の無念な気持ちをわかってくれるんじゃないか?」ってことらしいですが、私には特別なスーパー能力みたいなものは何もないので、最後は乗っかってきた人たちをガッカリさせてしまいます。中途半端に関わると相手に期待させてしまうだけなので、なにも出来ない場合は近づかない方がいいでしょう(なんの話だ?)。
あと今作に出ている演者さんは全員大好きです。
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