「自己理解のために相手を理解しようとするコミュニケーション」が暴力となる危うさ
はじめに
この1ヶ月、多くの本やセミナーなどを通して、自分自身のあり方を振り返った時に、「他者の自己理解のために取っているコミュニケーション」について反省することが多かった。
僕はそのようなコミュニケーションをとる時にいつも、
「この人の生きてきた背景にはどのような経験があって、どのような人格形成をされてきたのだろう?」という問いを持ちながら接していた。
簡単にいうと、【人のことを理解しようとするスタンス】でいた。
コミュニケーションの時は、相手自身のことを理解しようと心がけており、相手のことを聞いている時に、「どのようなことを感じやすいのか?」という仮説を立てながら聞いていた。
仮説を立てていながら、相手自身があまり本心でないと感じることをいうと、自分自身がそれを理解できずに、相槌を打てないことや、むしろ仮説に合っていることはとても相槌を打ってしまうなどしていた。
しかしこれは大きな問題であるとここ最近感じている。
「相手のことを理解しよう」というスタンスでいた結果生まれている弊害について考えてみた。
そもそも相手のことを完全に理解などできない
まず前提として、「相手のことを完全に理解などできない」
同じ経験や同じ環境で生きてきた訳ではなく、人それぞれの感じ方が存在し、「喜怒哀楽」という4つのパターンになど収まらないあまりに多様な気持ちや、意思が存在する。
もちろんパターンとして「こういうことかもしれない」ということは存在するけれど、自分自身の想像とも近しい感覚や人格形成であるかもしれないが、完全に同じ訳ではない。
相手のことを部分的には理解できるかもしれないが・・・
経験的にも、完全に理解することは難しいが、部分的に理解することはできる感覚は往々にしてある。
しかしながら、相手について理解をしようとすること以上に、僕が大切にしなければいけないと思っていることは、相手自身が自分自身を理解することである。
自分が相手を理解する<相手が相手自身を理解する
それはそうだろ!というツッコミが入りそうだが、無意識的にコミュニケーションを取っている時に、自分が相手を理解する>相手が相手自身を理解することが往々にして多い気がする。
しかしながら、本来大切であるのは、自分が相手を理解する<相手が相手自身を理解するである。ここに自覚的であることはとても重要である。
自分が相手を理解するスタンスの弊害
無意識に自分が相手を理解する>相手が相手自身を理解することをしていると起こることが、
・「理解できる時は頷く」けれど、「理解できない時に頷けなくなる」現象
・相手が自分に理解されたいと感じ、相手自身が自分に素直に目を向けれなくなることだ。
「理解できる時は頷く」けれど、「理解できない時に頷けなくなる」現象
この現象とても深刻だと反省した。
何故ならば、相手は自分自身の感じていることを話しているのに、理解されないという苦しみを味わうことで、リラックスにて話すことができないからだ。
相手が自分に理解されたいと感じ、相手自身が自分に素直に目を向けれなくなること
あくまでこのコミュニケーションの目的は、「相手の自己理解」である。それであるにも関わらず、理解される自分自身に相手が無意識に変容する可能性を秘めている。
傾聴と理解できないという前提を持つこと
僕が改めたいと思ったことの1つ目が「傾聴」というスタンスを改めて持つことだ。自分自身が理解できるかに視点を置くのではなく、相手が話しやすく自分を出しやすいような場づくりを心がけたい。
また2つ目は、「理解できないという前提を持つこと」相手の気持ちを完全に理解することはできない。そこに焦点を当てることが大切だ。
あくまで自己理解を深めるための触媒であり鏡
僕が意識したいテーマは、「触媒」であり「鏡」であること。
改めて日々このことを意識しながら、コミュニケーションを取ろうと思う。
Photo at 神保町 レゴシリアスプレイ by Kei Takahashi
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