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短編小説「インサイドブレスレット」

「驚かないの?」

「え、なにに?」

「だって、見たでしょ、手首」

「うん、見たけど」


これまで誰にも見せたことのなかったそれを、
ついに見られてしまった。
いつか見られるかもとは思っていたが、
心の準備はできていなかった。

積み上げてきたものが、
音を立てて一気に崩れ落ちていく感覚。
あぁ終わった。
もう今まで通りは無理だ。
今すぐに、どこか遠くへ逃げてしまいたい。

この過去だけは消し去りたいと思っていたのに。
もう一度だって思い出したくなかったのに。


こんな時間続いてほしくない、
という時間ほど長いものはない、と感じた。
いつもより大きく聞こえる最寄駅の踏切の音に、全てをかき消してほしいと願う。


「いやだよね、こんなの。ごめんね」

「え、なんでそうなるの?
  そんなこと思ってないよ?」

綺麗で大きなブラウンの瞳を向けたまま、
彼女は続ける。


「誰にだって知られたくないことの一つや二つ
  あるもんでしょ。
  私はそれを聞こうとも思わないし、
  知りたいとも思わないよ」


意外だった。
そんなことを言われるなんて、
微塵も思っていなかったから。

身体から少しずつ力が抜けていく。
まるで私の身体を置いて、
魂だけが少しずつ溶けていくかのようだ。

「それにほら、実は私も」

そう言うと彼女は、
華奢な左手首をこちらに向ける。

「え」

先ほどの彼女の反応とは相対して、
逡巡してしまった。
そこには薄らとした皺のようなものが、
いくつも折り重なっていたのだ。

「私も若い頃に色々あってね。
  まぁ今思えば大したことじゃないんだけどさ」

その綺麗な皺は、
確かに自分を傷つけようとした残骸だった。
彼女は一体これまでに、どんな独りの夜を
過ごしてきたのだろうか。

沢山の言葉と想いを交わしてきたけれど、
彼女がそのようなことをする人だとは
思っていなかった。
人は見かけによらないとは、よく言ったものだ。

「だから私には隠さなくてもいいんだよ。
  あと、このことは2人だけの秘密ね」

いつも以上に気を遣って、
彼女はそんな秘密を共有してくれた。
焦りと緊張から早くなっていた鼓動が、
少しずつおとなしくなっていく。
理由はわからないけれど、
とても居心地が良かった。
今だけは、今夜だけは、
彼女に寄りかかってもいいのではないかと、
本気で思うくらいに。


「ねぇ、もう一回見せてよ」


そう言われたので、私は右手首を差し出した。
すると、その隣に彼女のそれを並べる。


「こうしてみると、なんだか
お揃いのブレスレットみたいじゃない?」


私がずっと消したいと思っていた過去を、
たった一言で装飾品にしてしまった。

自分の悲惨な過去を、
綺麗なアクセサリーに例えるなんて、皮肉だ。
しかし、そんな皮肉が私の心を軽くしてくれた。


どれだけ苦しかった時間も、
眠れなくて孤独を感じた夜の闇も、

「あんなことがあってさ」

と笑いながら言ってしまえばいい。


愛する人と
お揃いのブレスレットをつけられたのだから、
これくらい安いもんだ。

私は「そうだね」とだけ返して、
ベッドの上でこれでもかと脱力した。

今だけは彼女の胸に、
私の全てを委ねていようと思う。

彼女の甘ったるい香水と、
メンソールのタバコの匂いが
忘れられそうにない。
できればこのまま目覚めたくないと願うほど、
愛おしい時間だったと思う。

時間は深夜2時を回っていた。
この日の思い出は、
お揃いのアクセサリーを付けられた喜びだけで、
あとは何も覚えていなかった。
そんな夜があってもいい。

彼女の歪なメタファーに救われた夜だった。

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