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【短編小説】夜が明けるまで


閉められたままのカーテンの隙間から、こぼれんばかりの日の光に当てられ、火照った体が鬱陶しくて目を覚ます。
私を包む真っ白なシーツをはぎ取って、ベッドから身を起こし、カーテンを乱暴に開けた。
昨日までの雨が嘘のように空は晴れて澄み渡っていた。雲なんてひとつも浮いてやしない。あれほど止まなければいいと願ったのに、いとも簡単に消えてしまった雨。期待をしていたわけではないけれど、空に裏切られたようで、ひどくみじめな気分だ。
そんな靄のかかった頭を払拭するように窓を全開にして、外の空気を吸い込む。マンションの8階から街を見下ろせば、商店街を歩く人々の活気あふれる声と、車のクラクションの音が耳を塞ぐ。

「おはよう」
ベッドルームを抜けてリビングに出る。
「おはよう、って、お前。もう昼だよ」
リビングのソファで寝転んでテレビに耽るあなたが起き上がり、私の姿を見て笑う。
深緑色のソファは、こだわりの少ない私が唯一魅せられた代物で、それはどうやらあなたも同じだったようで、広いリビングの中、そこはいつの間にか彼のお気に入りの場所になっていた。
「雨の音がうるさくて、夜なかなか寝付けなかったの」
私はあくびを隠しながらキッチンに足を踏み入れ、ポットに火をかける。ああ、コーヒー豆のストックが終わってしまう。今日にでも買い物に出かけよう。
「それはまあいいんだけどさ。いい加減、床で寝る癖なおしなよ」
ソファから離れ、オープンキッチンのカウンターに立つ彼と向かい合う。
あなたこそ何時に起きたのか、寝癖をつけたままの黒い猫毛がふわふわと揺れている。
にっこりと薄い唇が弧を描いて、私を見つめる茶色い瞳に眩暈がしそうになる。
バルコニーへと繋がる、彼の背にあるリビングの大きな窓に差し込む光に照らされて、揺れるあなたの髪が少しだけ赤いことがわかった。
きれいだ、と思った。この世の人ではないような、どこか遠い世界にいる人のような。
見惚れてしまっていたかもしれない。少し間を置いて、私は彼から逃げるように視線を外した。
電動ミルにコーヒー豆を2杯分、入れる。
「私をベッドまで運ぶの、重くて嫌ってこと?」
嫌味のように言えば、彼はわざとらしく片眉を上げてため息を吐くのだ。
「そうじゃなくてねー」
ミルのスイッチを入れる。コーヒー豆が砕ける無常な音がリビングに響き渡る。彼はますますわざとらしく眉間に皺を寄せる。
スイッチを切ると途端に訪れる静寂。私は彼を一瞥し、フィルターにゆっくりとコーヒー粉を落とす。
「そうじゃなくてね。君の体を心配しているんだよ」
「床で寝るのにはもう慣れたのよ」
反論すれば、彼は諦めたように踵を返し、よろよろと覚束ない足取りでソファに埋もれた。
「ああ言えばこう言う・・・」
呆れたようなか細い声が、耳に届いた。

私はマグカップを棚から2つ取り出し、湯気の出始めたポットを眺める。
久々の休日に昼まで寝てしまったのは時間の無駄だが、今こうして穏やかな空間で満たされるのも、悪くはないのだろう。しかしながら私の心は満たされることはなく、この幸せとも呼べる時間に虚しささえ感じている。
テレビから流れる昼のバラエティ番組の音ですら、ただの雑音になる。
ポットの蓋がグツグツと揺れて、お湯が沸いたことを知らせる。ガスを切り、フィルターにお湯を流し込みサーバーに飴色を落とす。
この瞬間が私はとても好きで、コーヒーを飲むためというよりも、むしろこのひと時のためにコーヒーを飲むと言った方が正しいかもしれない。この数分の間だけは、私は何も考えずにいられるのだ。そのはずなのに。
聴き慣れた電子音がリビングに響いて、一気に現実に戻された。
彼の携帯が鳴ったのだ。音が止むのと引き換えに彼の声が響く。

「もしもし、どうしたの?」
普段の彼の声はとても穏やかで、囁くように低く、とても心地の良いものなのだけれど、他人の電話に出ているその甘ったるい気怠げな声だけは、どうしても好きにはなれない。なんて傲慢なのだろう。利己的で、自分に嫌気がさす。
「うん、そうだよ。え?今から?わかった。すぐ行くよ。だから泣かないで」
相手は紛れもなく、彼の”友人たち”の一人だろう。私と彼の関係はとても奇妙で、一度だって体の関係はない。
彼は気まぐれに色々な女性の元を訪れ、そして気まぐれにこの部屋にもやってくる。自分のマンションだって持っているのに。
昨日の夜10時過ぎ、彼は私の家のインターホンを鳴らした。連絡の一つも寄越さずに。
家に招き入れると、
「外は暑いねー」
なんて首元を扇いで、どこかの香水のにおいをさせていた。
それからつまらない映画を見て、彼はそのままソファで眠った。眠れない私は、バルコニーでずっと降り続ける雨を眺めていた。
眠らなければ、夜明けは来ない気がした。
夜が明けなければ、彼は出ていかない気がした。
結局私はそのままバルコニーに近いフローリングで寝落ちて、いつの間にか彼によってベッドに運ばれていたらしいけれど。

2つ出していたマグカップを、気づかれないようにそっとひとつ、戸棚に戻した。サーバーのお湯も、一人分になるように調整した。豆は2杯分すでにフィルターへ入れてしまったから、今日は少しだけ苦いコーヒーを飲んで、残り少ない今日という1日を始めよう。
「大丈夫だから、ね。うん、じゃあね。あとで」
電話を切った彼は、ふう、と短く息を吐いて、ゆっくりソファから立ち上がる。
コーヒーを淹れる私と目が合う。

「お、コーヒーのいいにおい」
「あなたの分は淹れてないわ」
「さらりとひどいねまったく」
「だって出かけるんでしょう」
「そうだけどさ、一杯くらい」
「泣いている子を待たせるの」
数秒の沈黙の後、彼は肩を落としてため息をつく。

「・・・わかったよ、行くよ」
なぜか彼が妥協したようになったけれど、これが正しい選択なのだろう。私にとっても、あなたにとっても。
白いシャツ一枚とスウェットを履いただけの寝間着姿の彼は、寝室のクローゼットから服を引っ張り出して着替え始める。
古着屋で見つけたと言っていた淡い黄色のシャツ。それと、
「ちょっとそれ私のじゃない」
当たり前のようにクローゼットから出され、今まさに彼が履こうとしている黒いスキニージーンズは私のものだ。
「サイズとか。ちょうどいいんだよ」
「そんなわけないでしょう」
とは言ったものの、身長差は15cmほどあるはずなのに、彼はそのジーンズにいとも簡単に足を潜らせ、見事に着こなしている。少しだけくるぶしが見えていても、それはそれでお洒落に見える。
羽織ったネイビーのカーディガンは、一見すると地味なのに、彼が着ればたちまち洒落たアウターになるのだから、世の中は残酷だ。
口笛を吹きながらキッチンを通り抜け玄関へ向かう彼を、私はただ黙って見送る。
「借りてくね、このジーパン」
玄関から彼の意気揚々とした声がした。
借りていく、ということは、またこの部屋へ来るということ。また私は何度も同じことを繰り返すのだ。自己嫌悪と虚無感を無意味に味わわされる。
なんて愚かな。


「あげるわ、そんなもの」
玄関の向こうへ消えたあなたに聞こえないことを承知で、私は吐き捨てるように呟いた。
私の夜は、まだ明けないらしい。


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