見出し画像

映画紹介#004「ブランカとギター弾き」(2015)後編

後編はネタバレありで、映画の内容について自分の印象に残ったこと、気づいたこと、感想、好きなシーンなどについて話していきます。

前編はこちら。




【世界の片隅にスポットを当てる】

映画の何を楽しむかは人によって色々あると思う。
自分の場合は、シンプルにエンターテイメントとして非現実の世界に浸ることや、推しの俳優のパフォーマンスを見ることも好きだけど、フィクションのフィルターを通して現実の社会を新たな視点から見ることができたり、自分とは全く違う人生を擬似体験することで、自己認識が深まるような作品を観るのも同じくらいに好きだ。

知らなかった世界の一面を垣間見ることができる作品に出合えたときはとても嬉しくなる。
今回紹介した『ブランカとギター弾き』は、まさにそんな作品。


ニュースを見れば様々な社会問題が取り上げられて話題には事欠かないけど、世界の貧困問題について知る機会って、気がつけばいつの間にかものすごく少なくなっている気がする。

この映画は、情報としてなんとなく知ってはいても積極的に見ようとしてこなかったフィリピンのスラムの姿を、過度にセンセーショナルに描くことなく、そこに暮らす人々に寄り添うようにして優しく写し出している。

人間どうしても美しいものに惹かれるし、臭いものには蓋をしたくなるけど
、時には普段は見ないものに目を向けて、声なき声に耳を傾けることも必要。
全てを理解できなくても、一人ではなんの力にもなれなくても、まずは知ることから。優れた映画はそういうきっかけを与えてくれると思う。




【スラムの雰囲気】

スラムの景色を見ていると、観光で感じる賑やかでポジティブな活気に溢れた東南アジアの雰囲気とは一味違うものがある。
日本で暮らしているとなかなか想像がつかない危険な空気、いつ悪いことが起きても不思議じゃない雰囲気が常に漂っているような感じ。

でもそこで暮らしている人々にとってはそれが当たり前の日常。
良くないことが今にも起こりそうというより、良くないのが普通。
危険そうに見えても、子供たちにお粥を配る人もいれば、呑気にテレビを見ているおっちゃんもいたりする。ドラッグクイーンのお姉様たちが、子供たちや盲人ピーターの世話を焼いてくれることもある。
みんな生きることに必死なだけで、明確な悪意を持った人は案外多くない。


この映画を観た友人がこんなことを言っていた。
「映画全体を通じて、感謝の言葉をみんなが全然口にしないなと感じた。俺ならありがとうって言いたくなるシーンが何度もあったけど、誰も口にしない。そこに違和感を感じつつ、それが逆にリアルな感じがする。」


自分はあんまり意識してなかったけど、言われてみれば確かにその通りだと思った。
もしかしたら文化的な違いも多少あるかもしれないけど、やっぱり他人のことを思いやる余裕がないと、相手に感謝を伝えるってなかなか難しい。
どうしたら自分が幸せになれるかがどうしても最優先になる状況においては特にそうなんだろうなと思う。



【ピーターの生き様】

そんな中で、主人公ブランカが出会う盲目のギター弾きピーターからは、他の人たちとは明らかに違った生きる姿勢が感じられる。
彼は物事に執着せず、なるがままを受け入れて、これ以上を求めない。
人生、良い時もあれば悪い時もあると考えて、悲しむことはあっても決して他人に怒りをぶつけたりはしない。
ピーターからお金を盗もうとしたブランカに対しても「いいよ。持ってきな。ただし朝飯代だけ残しておいてくれ」と思いやりの気持ちを見せる。


ブランカと一緒に服を買いに行き、色の話をするシーンでピーターは、青は海の色、空の色と答える。
明るい青色のシャツを着て、淡い青色のギターを弾くピーターはまさに海のように広く穏やかで、空のように澄み切った心の持ち主。
音楽さえあればそれでいいというような、ある種の悟りの境地を感じさせるピーターを見ていると、昔の聖人と呼ばれる人たちはまさにこんな感じだったのではないかと思う。




ピーターを演じたピーター・ミラリは、ヴェネツィア映画祭での本作の初上映の数日後、突然の病により他界した。
エンドクレジットには「彼の魂はこの映画と共に今も世界中を旅している」という文章が添えられている。

自分もこの映画を通してピーターという人に出会えて本当によかったと思う。これから先もこの映画が彼を世界中の誰かとの新しいつながりを生みつづけてくれることを願ってやまない。




【セバスチャンの存在】

物語中盤で、ブランカが出会ったスラムに住む少年セバスチャン。
主役を食ってしまうほどの輝きを放っていて思わず目が釘付けになる。

兄貴分であるラウルと二人で路上に暮らすセバスチャン。
二人はまるで「ピーターパン」に登場するロスト・ボーイズのよう。
ブランカが母親の愛を求めるのに対し、ラウルからはむしろ「親なんていらない。自分たちだけでなんとか生きてやる」という反抗的な意思を感じる。
セバスチャンはラウルを信頼し、本当の兄のように慕うことで自分の居場所を見出している。ブランカに対しても、自分の姉のように思って接する。

セバスチャンは兄弟愛を通して他者を思いやる気持ちを身につけている。
ブランカが映画のラストでようやく気がつく「すぐそばにある愛情」の存在を「ここだよー!」と主張せんばかりにキックボードで街中を駆け回る姿は、啓示をもたらす天使のようにも見えた。



セバスチャンを演じたジョマル・ピスヨは、スラムでキャスティングをしていた長谷井監督の目に留まり、その場で出演が決まったそう。
二人の交流は映画の撮影後も続いている。



【ブランカの変化】

母親がいれば幸せになれると信じる愛情に飢えた少女ブランカ。
愛を知らないブランカの母親をお金で買うという彼女のアイデアは、お金さえあればなんでも買える、お金さえあれば幸せになれるという考えの裏返しのよう。
序盤、ブランカは街を歩く母子の姿を見つめてる場面が何度もある。
お金の隠し場所は聖母マリア像の下。ブランカはあくまで母親への執着が強い。
その執着が仇となって物語終盤、怪しげなオバサンの母親になってくれる人を紹介してあげるという言葉に危うく騙されそうになる。(あのオバサンは街にあった指名手配のポスターと同一人物?)



怪しいオバサンとの一件で、ブランカの母親を買う計画は失敗に終わる。
旅に出る前までの彼女は、いつか母親の愛情を受けて幸せになるという夢を見ることができたが、現実を知ってしまった今ではもう後戻りすることもできない。
孤児院に連れて行ってとピーターに頼んだ彼女の選択は、諦めの一手だったのだと思う。
ブランカはピーターの愛情を一身に受けているにも関わらず、それに気付いていない。この段階ではまだ母親の愛を前提に物事を考えている。


一方ピーターは、ラウルに対するセリフからも父親としての決意が窺える。
孤児院へ向かう道中、二人はこれまでで一番幸せそうでまさに親子としての時間を過ごしている。
ピーターとしてはブランカへの親の愛を持ちながら(持っているからこそ)、彼女が孤児院に入ることに抵抗はしない。自分と一緒にいるよりも良い生活が送れることを知っている。そもそもピーターはなるがままを受け入れる人。ブランカへの無償の愛がただそこにある。

孤児院に入ってピーターと離れ離れになったことで初めてブランカはピーターがこれまで自分に注いでくれていた愛の大きさに気がつく。
弟のように自分を慕ってくれるセバスチャンも含めて、ブランカにはもうすでに家族があったことに彼女はようやく気がつく。

「家に帰る」と言って孤児院を出ていくブランカ。
街の広場までたどり着くとギターの音が聞こえてくる。そこにはいつもと変わらずにピーターがいて、近くにはセバスチャンもいる。
見つめ合うブランカとピーター。
この時のブランカの表情が、言葉では言い表せないほど美しい。

もちろんこれから彼らの暮らしがすぐに楽になるとは限らない。
ラウルと和解できたのかも定かではない。
フィリピンのスラムが現実がすぐに好転するわけでもない。
それでも目には見えないけど確かにそこにある、二人の絆に希望が感じられる素敵なラストシーン。





幸せとは何か、豊かさとは何か。
この映画を観ているとそういうことを考えさせられる。

貧困という現実から目を背けてはいけない。
社会全体で協力して解決していかないといけない。

でも、同時に貧しい中にも人は幸せを見出す力がある。
果たして、自分たちはブランカやピーターやセバスチャンより心が豊かだと言い切れるか。目の前にある当たり前をもう一度ちゃんと見つめ直したい。



Home is where someone is waiting for you. - Baumi
家 それは誰かがあなたを待っていてくれる場所。 ーバウミ

エンドクレジットより



この記事が参加している募集

#映画感想文

68,930件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?