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生きがいについて - 感想・引用

著者プロフィール: 神谷美恵子
1914-1979。岡山に生まれる。1935年津田英学塾卒業。1938年渡米、1940年からコロンビア大学医学進学課程で学ぶ。1941年東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)入学。1943年夏、長島愛生園で診療実習等を行う。1944年東京女子医専卒業。東京大学精神科医局入局。1952年大阪大学医学部神経科入局。1957-72年長島愛生園精神科勤務(1965-1967年精神科医長)。1960-64年神戸女学院大学教授。1963-76年津田塾大学教授。医学博士。1979年10月22日没。

生きがいについて――神谷美恵子コレクション Kindle版

今回の記事は、人が生きていくことへのいとおしみと、思索に支えられた思想の結晶と言われる作品です。1966年の初版以来、多くの人に読まれてきた名作です。

この記事では、本の要約をするのではなく、輪読会を行うにあたり、私が読んだ感想や本からの学び、一部引用を紹介するものです。輪読会用のメモなので、一般的な記事のようにきちんと整理されているわけではないのでご了承ください。

感想

  • 今回の本のような、哲学系の本は改めて良いと思った。自分一人だったら、最近の状況から読むとは思えない本なので、読めてよかった。次回もこのようなジャンルの本が良いと思う。

  • 自分のやっていることに意味を見出していて、実際にそれが価値を生んでいて、生きがいも持っているというのは非常に恵まれているのだと思った。

  • また、こういう本を読むと、人は社会的な生活を歩み、それを発展させていくことが本当に価値のあることなのか?という疑問を思い出させてくれる。無意味に自動化するのは、効率的なのかもしれないが、意味があるのかどうかはわからない。

  • How to be useless”という記事があり、その中で道教について触れられていた。

    • 自分が有用であろうとする必要はなく、ただ存在しているだけで良い。

    • 健常者よりも障害者の方が良いと述べられていた。

    • このような価値観って、特に切羽詰まっている社会だと受け入れにくかったりするのだろうけど、本質的にはこちらが正しいと納得感がある。

  • 確かに生きていると自分のやっていることに意味があるのかどうか、わからなくなって無意味感、無気力感というのが発生してしまう。(生きがいがなくなってしまう)

    • 人はやはり誰かの役に立つとか、認められるとか、そういうのがないとダメなのだなと。

  • 会社で働いてもらっている人にとって、どのようにその個人の仕事における生きがいを作っていけるかというのも大事だと思う。

    • お金のためにと割り切るのもできるけど、その方の人生を使ってもらっている以上、何か良い経験をしてもらいたい。

    • でも、会社や社会全体で見ると、やはり誰もやりたくない仕事は存在していて、その方々がそこに意味を見出せるかどうかは難しい。

    • 役割でのみ会社における仕事を定義すると、こういうのが起きる?何か良い組織論があれば勉強してみたいと思った。

  • ヴィクトール・フランクルの夜と霧を思い出す。

    • 人生の意味は人生に問われている。

    • それを見つけ出さなければならないし、与えられるようにならないといけない。

  • 宗教って、言ったもの勝ちみたいな根拠のないものなのに、それを何億人も信じていて、かつ、そのうちの幾パーセントの人は、そこに生きがいを見出しているってすごいと改めて思った。

    • 信じる者は救われるという、人生の意味を見出せるという意味で救われているのだなと思った。

引用

3章 生きがいを求める心

変化への欲求

すでに自己の生命の終りに近づいた老人にとって、草花を育てることや、孫の相手をすることが大きなたのしみになるのは、ただの暇つぶしという意味よりもむしろ若い生命のなかにみられる変化と成長が、そのまま自分のものとして感じられるからなのであろう。

未来性への欲求

若いひとのほうが生きがい感を持ちやすい理由の一つは、彼らが過去という重い荷に制約されることなく、すべてを未来にかけて、わき目もふらずに何ものかを創り出そうと力のかぎりをかたむけうるからである。

この文章から家康を思い浮かべた。

反響への欲求

愛に生きるひとは、相手に感謝されようとされまいと、相手の生のために自分が必要とされていることを感じるときに、生きているはりあいを強く感じる。

自己実現への欲求

「自己実現」と単なる「わがまま」の区別は、生きがいかんと結びつけて考えてみれば明らかである。「わがまま」というのは、自我の周辺部にある、抹消的な欲求に固執することで、これがみたされても真の生きがいは生まれない。これに反し、「自己実現」の場合には、実現されるべき時がとは、いわゆる「小我」ではなく、中心的、本質的な自我を意味する。

意味と価値への欲求

人は自分でもそうと意識しないで、絶えず自己の生の意味をあらゆる体験の中で自問自答し、確かめているのではなかろうか。そしてその問いに対して求める答えは、どんなものでも良いから自己の生を正当化するもの、「生肯定的」なものでなくては生きがいは感じられないのであろう。

4章 生きがいの対象

生きがいは、それを持つ人の心に一つの価値体形を作る性質を持っている。

オルテガの言う通り、人間の生はそもそも根本的な孤独なのであって、愛はこの2つの孤独を一つに融合しようという試みなのであるから、愛はまず互いの心の世界を知ること、理解することへの努力から出発すべきものなのであろう。

5章 生きがいを奪い去るもの

人間の意志を超えた力がある人の生活史に作用するとき、それがどのような意味を持つかと言うことは、その人がそのことにどのような意味を持たせるかと言うことでもある。つまりこれは、その人の独特の創造であるとも言える。

6章 生きがい喪失者の心の世界

苦しみ

悩みというものは少しでも実体がはっきりするほど、その圧倒的なところが減ってくるものらしい。従って、いい加減な同情の言葉よりも、ただ黙って悩みを聞いてくれる人が必要なのである。

悲しみ

苦しみは精神の一部しか占めないことが多いが、悲しみは一層生命の基盤に近いところに根を置き、従ってその影響は肉体と精神全体に広がっていく。ゆえに深い悲しみにおそわれた人は、何をすることも考えることもできなくなってしまう。苦しみはまだ生命への足掻きと言えるが、悲しみは生命の流れそのものが滞り始めたことを意味する。

苦悩の意味

苦悩がひとの心の上に及ぼす作用として一般にみとめられるのは、それが反省的思考をうながすという事実である。苦しんでいるとき、精神的エネルギーの多くは行動によって外部に発散されずに、精神の内部に逆流する傾向がある。そこにさまざまの感情や願望や思考の渦がうまれ、ひとはそれに眼をむけさせられ、そこで自己に対面する。人間が真にものを考えるようになるのも、自己にめざめるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行われる。

ただ「即自」に生きるのでなく、自己にむかいあって「対自」に生きる人間特有の生存様式がここにはじめて確立される。これこそ苦悩の最大の意味といえよう。

7章 新しい生きがいを求めて

自殺を踏みとどまらせるもの

ウィリアム・ジェイムズは「人生は生くるに値するか(5)」という文章のなかで、たとえ宗教や哲学を持っていないひとでも、自殺一歩手前というところで、次の三つのものによって踏みとどまることができるはずだといっている。第一は動物ですら持っている単純な好奇心で、人生にまったく生きる意欲を失った人間でも明日の新聞に何が載るだろうかとか、次の郵便で何が来るかを知るためだけでも(自殺を)あと二四時間のばすことができる。第二は憎しみや攻撃心であって、たとえ心のなかで愛や尊敬のような感情が死んでいても、自分をこんなひどい目にあわせるものに対して戦おうという感情に支えられることもできる。第三は名誉心で、自分というものの存在を可能ならしめるために、どれほどの犠牲が払われたか、たとえばどれほどたくさんの動物が自分を養うために屠殺されて来たかを考えれば、自分もまた自分の分を果たし、これくらいの悩みは耐え忍ぼうという気をおこすのがふつうである、といっている。

運命の反抗から受容へ

「不幸な時にはできるだけしずかにしているのがいい。そして不満の感情はすべて抑えるほうがいい。というのは、こうした出来事のなかにどれだけの善いものと悪いものがふくまれているか、われわれには評価できないからである。また同時に、短気をおこしても何の助けにもならないからである。」

悲しみとの融和

私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでありました。そして私がその中身をほんの少しでも自分自身から外せることができるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました。

死との融和

まず死を前にしたひとがすぐ気がつくことは、自分が丸はだかで、なんの支えもなく、死の前に立っている、ということである。

自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときこそひとはもっとも自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きて行くための功利的な配慮もいらなくなる。自分のほんとうにしたいこと、ほんとうにしなければならないと思うことだけすればいい。

時間の軸の上で

時間というもののふしぎさは、こういうときに初めて知られる。生活に目標があり、毎日の大体の時間割がきまっているときには、時間というものは経過しさえすれば、それがどこかへ自分をつれて行くと感じられる。ところがなんの目標もない生活においては、単に夜昼の別、食事の時間などがあるだけで、あとは砂漠のように無構造な時間のひろがりとなってしまう。

自然のなかで

社会をはなれて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえることができるというルソーのあの主張は、根本的に正しいにちがいない。少なくとも深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力――それは彼の内にも外にもはたらいている――によって癒され、新しい力を恢復するのである。

8章 新しい生きがいの発見

置き換え

フランスの語り草では、青年時代は恋愛、壮年時代は仕事への野心、老年には貪欲

9章 精神的な生きがい

宗教的なよろこび

岸本は宗教というものを「人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題の究極的な解決に関わりを持つ人々によって信じられている、営みを中心とした文化現象である」としているが、この意味づけの役割こそ、終局的には宗教の持つ最も大きな働きであると思われる。

10章 心の世界の変革

変革体験の意味

結局、人間の心の本当の幸福を知っている人は、世にときめいている人や、いわゆる幸福な人種ではない。かえって不幸な人、悩んでいる人、貧しい人の方が、人間らしい素朴な心を持ち、人間の持ちうる、朽ちぬ喜びを知っていることが多いのだ。

11章 現世への戻り方

残された問題

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場から見ただ存在理由があるに違いない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられない人、他人の眼にも認められないような人でも、わたしたちと同じ生を受けた同胞なのである。

おわりに

生きている意味というのは、要するに一人の人間の精神が感じ取るものの中にのみあるのではないか。

困難な「現代のジレンマ」克服への道

現代のジレンマとは、文明が進むこと、とりわけ物質的に豊かになることが、必ずしも心の満足感や生きがい感に結びつかないどころか、むしろ満足感や生きがい感を得るのを困難にしていく傾向があるということだ。そして、人はそういう状況の中で、もがき苦しんでいる現実がある。

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