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【エッセイ】私、芸術・評論⑤「私と大学」

④はこちら。

K大学への進学

 私がK大学文学部に進学したのには明確な理由があった。K教授への憧れである。当時、私はその毒に完全にやられていて、ぜひ直接授業を受けたいと思っていたのだ。実を言うと、この『私、芸術・評論』も教授の著書から大いに影響を受けている。

 幸いにも受験科目には苦手な国語がなく、代わりに得意な小論文があった。加えて、英語は辞書持ち込み可である。これで落ちるはずがないと思った。センター試験の結果は散々で周囲を大いに失望させた(詳しくは知らないが、いろいろと期待されていたらしい)が、私はまったく意に介さなかった。
 実際、合格通知が届いたときには「それ見たことか」と思った。その後、手のひらを返したような周囲の態度には心底ムカついた。

実際のK教授

 さて、私は直接会ったK教授のあまりの淡白さにいささか拍子抜けした。口下手とまではいかないが、直接口で語るよりも文章の方が饒舌なのだろう。18歳の若者が自分の著書を手に現れたのである。もっと親切にしても良いんじゃないか?と今にしてみれば思う。尊敬する人物と直接会うということはこういうものかもしれない。
 結局、教授の授業には4年間通うことになった。学生の名前をまったく覚えようとしない教授もさすがに私の名前を覚え、今もたまに交流は続いている。ラトルがベルリン・フィルの監督だったときは、東京よりもベルリンで会うことの方が多かった。

指揮者S氏からの影響

 K教授の授業には先輩として指揮者のS氏がいる。私が出会ったときはすでに卒業しており、会社勤めの傍ら自身で立ち上げたオーケストラを指揮していた。
 フェドセーエフの来日公演の折、酒を飲みながらあれこれ語り合ったことを覚えている。そのときにアマチュアで指揮をしていることを聞き、招待されるままに演奏会へ赴いたのだ。
 正直言って気乗りはしなかった。当時、合唱サークルに所属しており、アマチュアの音楽がどのようなものか理解していたからだ。しかし、氏の指揮する『シェエラザード』の始めの一音を聴いて、これはすごいと思った。終演後、本人へ直接感動を伝えたのは言うまでもない。

 今は専業の指揮者として活躍しているS氏。いつも氏の行動力と人柄の良さには驚かされる。個人的な話になるので細述は避けるが、氏がいなければ私はヨーロッパで音楽を聴くことも、今のように執筆活動をすることもなかったかもしれない。

哲学専攻のN教授

 文学部では2年に進級する際に専攻を選ぶ。私は哲学専攻にした。美学美術史専攻と迷ったが、より広範な領域をカバーしていることとN教授の人柄が決め手である。3年からは教授のゼミに所属した。

 N教授は誰に対しても非常におおらかで、偉そうな態度とっているところを見たことがない。かつて国際学会で会長を務めていたとは思えない、良い意味での素朴な親しみやすさがあった。それでいてものすごい博覧強記ぶりを発揮するから、多くの学生に尊敬されていた。
 私が教授の専門である古代ギリシャ哲学とは離れた「ニーチェとワーグナー」(一応メインのテキストは『悲劇の誕生』にした)というテーマで卒論を書き、無事に学部を卒業できたのは教授のおかげであろう。

合唱から得たこと

 合唱サークルにも所属した。いろいろと楽しい思い出があり、今も交流が続く友人たちがたくさんできたことは良かったが、嫌な思いもたくさんした。それは学生がわざわざ経験する必要のないことだった。

 合唱サークルの活動を通して得たものがあるとすれば、やはり私にとって音楽は自己表現の手段ではなく、外部にある「対象」であるという思いを強くしたということであろうか。


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