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【小説】JK芹沢千絵理はかく語りき Op.1『復活』②

(①はこちら)

 芹沢さんに付いていくまま、エントランス脇の列に並び「当日学生券」というものを購入した。すでに4,5人が並んでいて、後から10人くらいがやってきた。案外盛況なのだなと思った。

 なんでも芹沢さんによれば、オーケストラの演奏会を聴こうとすれば、通常3,000円から10,000円はかかり、海外の有名オーケストラやオペラの公演ともなると15,000円から50,000円もかかることさえあるそうだ。
 お金持ちや趣味に好きなだけお金を投じることのできる大人はそれでも良いかもしれないが、若い人、特に安定した収入のない学生にとってそれはつらい。そこで映画館や美術館などと同様に「学生券」というものが存在する。通常の席を半額など割引で購入できるもの、あらかじめ学生用に用意された席を購入するもの、当日に売れ残った席を格安で購入するもの(今回はこれ)など様々あるらしい。

 「たいてい売れ残るのは高い割にあまり良くない席なのだけど、それを映画のチケットと同じくらいの値段で買えるなら悪くないかと。ちなみに、あらかじめ用意された席の場合は、本当に良くない席が割り当てられることが多いから、楽しみにしている公演なら思い切って定価で良い席を買うことも多いですね」

 それにしても、彼女がこんなによくしゃべるとは知らなかった。それも、半年間同じ教室にいて存在を認識していなかった、ほぼ初対面の相手に対して。普段は無口で冷静だが、こと自分の趣味や得意分野になると饒舌になるのだろう。
 「芹沢さんがこんなによくしゃべるなんて思わなかったよ。よっぽど、音楽が好きなんだね」
 「……」
 席に着いたところでそう指摘したら、我に返ったように黙って正面に向き直ってしまった。

 なんとなく気まずくて、入口でもらったプログラムをめくることにした。曲目はグスタフ・マーラー作曲の交響曲第2番ハ短調『復活』だそうだ。作曲の過程や曲の構成についての解説に目を通してみたが、よく知らない単語ばかり並んでいていまいちピンと来なかった。

 僕と彼女の間に見えない壁ができたまま、オーケストラが入場し、音を合わせ、やがて拍手とともに指揮者が入場した。燕尾服に身を包み、豊かな白髪をオールバックにした上品そうな紳士である。満面の笑みでオーケストラの団員と握手をしたり、客席に向かってゆっくりとお辞儀をしたりする姿は、いかにも人がよさそうなおじいちゃんである。

 ところが、彼がオーケストラの方に振り向きタクトを構えると、急に顔つきが変わった。まるで数々の修羅場を潜り抜けてきたような、あるいはあらゆる不幸を一身に背負ったような、暗いオーラが一瞬にして彼の身に宿った。その瞬間、オーケストラに緊張が走ったのがわかった。
 勢いよくタクトが振りおろされると、弦楽器群が激しくざわめき、コントラバスが地鳴りのように唸った。音は空気を振動させて伝わるものだと理科の授業で習ったことがあるが、そのことがよくわかった。音が鳴っているのではなく、空気の塊がこちらへ迫ってくることが実感された。
 やがてそのざわめきと地鳴りの間から、木管楽器が現れる。僕は嵐が吹きすさぶ荒野を一人歩く旅人の姿を想起した。ときどき昔を懐かしむような哀愁漂う旋律も顔を出すが、すぐに暗雲が立ち込め、それを彼方へと追いやってしまう。彼は何度も倒れては起き上がりを繰り返す。そしてついには二度と立ち直れないほど徹底的に叩きのめされてしまう。
 ここまででおよそ25分もかかっているのだが、僕は音の奔流に飲み込まれていて、文字通り時を忘れていた。こんな経験は初めてである。

 ヴァイオリンが奏でる美しいけれど虚ろなワルツ、皮肉っぽい管楽器の嘲笑、厳粛な女声のソロ、そして再び最初の部分が帰ってきたような阿鼻叫喚。
 その90分にも及ぶ音によるドラマの末に訪れる、崇高なフィナーレ。フル・オーケストラの咆哮。パイプオルガンの轟。大合唱の絶叫。
 最後の音が鳴り終わると、しばしの静寂の後に起こる大喝采。コンサートホールは興奮の坩堝と化していた。指揮者は疲労困憊の様子だったが、何度もステージに呼び戻されては、笑顔で聴衆と奏者たちの喝采に応えている。

 世の中にはこんなにも壮大な音楽があるのか。いや、音楽とはこんなにも壮大なものだったのか。僕は初めて触れる世界にただただ圧倒されていた。言葉を失うとはまさにこのことである。
 僕はこのことを興奮した調子で彼女に伝えると、彼女は満面の笑みでこう言った。
 「そう、だから、私は音楽が大好きなの!」
 
 この出来事をきっかけに僕は彼女と教室でもしゃべるようになり、やがてある活動を始めることになる。


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