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「何者かにないたい」病と、どう付き合うか? | 平野啓一郎さん 『最後の変身』

"時代というのは、何時でもそうして、病によってこそ、最も強く刻印されてきたのではないかのか?"

これは平野啓一郎さん『最後の変身』に出てくる言葉だが、現在を象徴する症のひとつは「何者かにならなくては」病だと思う。

何者かになる。何者かになりたい。何者かにならなくてはいけない。

僕も含めて、そんな強迫観念めいたものに追われている人は少なくないだろう。流行りのビジネス本を読んでいても、SNSのタイムラインを眺めていても、どこかソワソワした気落ちになるのは、この「何者かにならなくては」病にかかっているからではないかと思う。

文部科学省(当時の文部省)の中央教育審議会で、「個性の尊重」が明確に目標として掲げられるようになったのは、1980年代前半のことらしい。そして、現在は「個の時代」と呼ばれ、一人ひとりが「自分は何者か?」「自分は何者になりたいか?」を語ることが、様々なところで推奨される。

僕も以前は「何者かにならねば」と思って、必死に様々なものに手を伸ばしていた。資格の学校に行ったり、職を変えてみたり、住む場所を変えてみたり。会社で役職に就けば何か変わるかもと期待した時期もあった。

結果として、どれも「これが自分のやりたかったことだ!」と心から言えるほどの充足感はなかった。「好き」と呼べるものはあったけれど、これぞ「私の生きる道」と確証を持って断言できるものとは、まだ出会えていない。そのため、自分のやりたいことを明確に語れる知人をみると尊敬の念を抱くと同時に、羨ましさと劣等感が混じった複雑な感情を覚える。

ただ、この病は悪いことばかりでもない。何者かになりたいという気持ちは、人を行動に駆り立てるエネルギーにもなる。何者かの自分とはついぞ出会えなかったけれど、その道中で面白く、楽しいものとは随分出会えたように思う。この病は、毒にも薬にもなる症状なのだ。

「何者かにならねば」病と、どう上手く付き合っていくか?

これが現代を心地よく生きるために必要な知恵ではないだろうか。過度なストレスは心身を壊す原因となるが、ストレスがない生活は逆に人を無気力に追い込んでしまう。それと同じで、「何者かになりたい」という想いをどう消化させていくかで、自分に折り合いをつけられるのだと思う。

この病との付き合い方を学ぶ指南書として僕が親しんでいるのが、平野さんの作品だ。以前も書いたが、平野さんの小説は僕にとって「仏教の経典」のような存在なのだ。

そして、この「何者かにならねば」病という現在のアイデンティティの問題を、平野さんが最初に扱った小説が2003年に発表した『最後の変身』だ。

※『滴り落ちる時計たちの波紋』という作品集に『最後の変身』は納められていますが。『滴り落ちる時計たちの波紋』はKindle版がないので、Kindleで読みたい人は、単品売りのほうで是非!

今回は、『最後の変身』という作品の魅力を紹介しながら、「何者かにならねば」病との付き合い方を考えていきたい。

『最後の変身』は壮大なエピソード0

『最後の変身』は、平野さんが「21世紀における小説の新しい形とは何か?」を模索していた時期に書かれた短編小説であり、この時期に書かれた作品には実験的なものが多い。

紙面を上下二段に分けて、同時進行に物語が進む『氷塊』だったり、言葉が記号のように浮き出る『追憶』など、はじめて読んだ時は「これは、どう読めばいいのか?」と立ち尽くした作品もある。

『最後の変身』においては、新卒入社した数年後、突如会社をやめて、実家の私室に「ひきこもり」はじめた男の手記という体裁をとっていて、文字の並びも横組みなのだ。主人公の男が、まるでインターネットの掲示板に投稿したかのような文章が掲載されている。平野さんの作品を読み慣れている人なら、はじめは「ギョッ」とすると思う。

平野さんはインタビューで、この時期をこう振り返っている。

第二期で思考した事柄は僕のその後のテーマ、例えば「分人」という考え方の素になっています。でも、それぞれの作品を発表したときには概して「よくわからない」という反応でした。批評家からも読者からも酷評されましたから、今でもあの時期の作品が好きだという人に会うと、握手したくなります(笑)。僕にとってはこれらの作品を書くことが、二〇世紀の小説技法を克服して、二一世紀のそれへと脱皮するための不可欠なプロセスでした。

(引用元)平野啓一郎による平野啓一郎

僕も平野さんの熱心な読者だが、この時期の作品は作品単体で「面白い!」と思うことは正直難しい。ただ、この後に続く『決壊』以降の小説を読むと、この時期の「この作品」があったからこそ、以降の「あの作品」が生まれたのだと繋がりを感じて、読者として勝手に興奮を覚えるのだ。

そして『最後の変身』は、『決壊』『空白を満たしない』へと繋がる壮大なエピソード・ゼロのように感じる。ちなみに、僕が平野さんの小説を熱心に読むきっかけとなったのが、この2つの長編小説でもある。

『決壊』で提示された「人間は限界を超えれば当然に壊れる」という問いに、「じゃあどう生きたらいいのか」と答えを提示してくれるのが『空白を満たしない』。登場人物も設定も違うけれども、この2つの物語は1セットで読むことで完結するのだと思う。

そして、アイデンティティを巡る旅の出発点となっているのが、今回紹介する『最後の変身』なのだ。


現在は「ひきこもり100万人時代」

『最後の変身』は、実家の私室にひきこもる男の物語だ。「ひきこもり」は、「何者かにならなくては」病と同様に現代を象徴する病の一種であり、2つは密接に繋がっているように思う。

現在、自宅に半年以上閉じこもっている「ひきこもり」の人数は日本全国で100万人を超え、その半数以上が40~64歳の中高年だそうだ。

きっかけは「退職」が最多で、「人間関係がうまくいかなかった」「職場に馴染めなかった」なども上位にきている。

※(参照元)中高年ひきこもり61万人 内閣府が初調査

「ひきこもり」とは20代の一種の現実逃避行動だと思っていた僕は、この事実に衝撃を受けた。40歳、50歳を超えるまで会社で勤め上げていた人が、退職や職場のトラブルを契機に自室にひきこもってしまう。その件数の多さからして、ひきこもりは現在社会を映しだす現象だろう。

おそらく、ひきこもっている人たちの多くは、自分が「ひきこもる」とは全く想像していなかったのではないだろうか。『最後の変身』の男も、自分は「ひきこもり」から最も遠いはずだったと語っている。

 俺は世間の誰からも、およそ引き篭もりになるようなタイプからは最も遠い人間と見なされていた。俺本人が、そんなことは夢にも思わなかったし、そういう連中のことを大いにバカにしていたくらいだ。俺はよく、酒の席でそんな話題を持ち出しては、会社の同僚達と笑い合っていた。実際、世間一般に言う引き篭もりの原因など、鼻で笑ってやるしか内容なくだらないものばかりだろう。イジメだとか、学校が面白くないだとか、仕事が辛いだとか、……そんなところだ。

 俺は違う。俺は多分、今という時代を最も危なげなく生きていた青年の一人だった。それは、俺のこれまでの経歴と、俺を知るすべての人間が証明してくれるはずだ。俺は言ってみれば、突然、俺という人間の、あらゆる今ふうの ーー つまりは、どんな時にも明るく、カラ元気に満ち、何とも言えず軽薄で、無頓着な ーー 性格を反転させて、暗く、年寄りのように疲れきっていて、深刻で、滑稽なほどナイーヴな、そのネガのような存在へと様変わりしてしまったのだ。確かに、俺の身に生じた変化は、俺を知る人間にとっては一つの謎となっただろう。あんなに平凡な男が!  というわけだ。

多かれ少なかれ、「まさか、自分が…」「まさか、あの人が…」「まさか、うちの子が…」という気持ちが「ひきこもり」には付きまとうのではないだろうか。

もしかしたら、自分自身がこの先に「ひきこもる」かもしれないし、身内や近しい人が「ひきこもる」かもしれない。今はその兆候が見えなくても、突然と姿を表すかもしれない。そう考えると、『最後の変身』の手記はとても他人事として読むことはできないのだ。


グレーゴル・ザムザと自分を重ねて

『最後の変身』では、主人公の男が幼少期から現在に至るまでを振り返りながら、「なぜ自分はひきこもったのか?」の独白を進めていく。

その中で、男が自分の置かれている状況を理解するために、考察を重ねるのがカフカの有名な小説である『変身』だ。

ある朝、目をさますと巨大な虫に変っている自分を発見した男、グレーゴル・ザムザとその家族が描かれる小説だが、主人公の男は自分とザムザに共通点を見出すようになっていく。

とにかくだ。ザムザは、驚かなかった。そして、俺もまた、自分が引き篭もりとなってしまったことを、いかにも無抵抗に受け入れた。俺にも驚きはなかった。しかも、ザムざの場合と同じように、家族や会社の上司は、それこそ気も動転するほど驚いたのだ。

そして、男は、ザムザとは与えられた「役割」に忠実というか、「役割」に監禁されていた人物だったのではないかという考察を深めていく。

グレーゴル・ザムザは、社会の中の、企業という組織の中では「セールスマン」という役割に、そして、家庭という組織の中では「息子」という役割に監禁されている。彼はその外に一歩も出ることが許されず ーー 父親の商売がうまくいかなくなってから、「つつましい事務職」から「旅回りのセールスマン」へと仕事が変わっているが、それこそはただの役割の変更に過ぎない、毛虫が蛾に変わって、あちこち飛び回っているだけだ ーー、その中で自由に振る舞う権利すらないのであるから、軟禁というより監禁だ。何故か? 何の権力によってか? ーー実は分からない。分からないが、何だか知らない間に、それに従わされている。丁度、ある生物それ自身が、どうしてその時、毛虫の内部にあり、蛾の内部にあるかを知ることがないまま、その役割を引き受けさせられているように。それは、驚愕すべき、異常な事態だ。にもかかわらず、グレーゴル・ザムザも、その生物のように、それを疑ってみることをしない。異常さはむしろ、その驚愕の欠如にこそある。……

ザムザは、働き手としても、息子としても、与えられた役割に申し分なく忠実な人物だった。真面目で家族思いの好青年のように見て取れる。そして、新しく与えられた「巨大な虫」という役割においても、物語が進むにつれ、その役割を全うするかのように、巨大な虫そのものといった行為を自ら進んで行うようになる。

「役割」が先にあって、そこに「自分」を合わせにいく。そして、そのことを微塵も異常だと思っていない。主人公の男はそんなザムザに、自分のあり方を重ね合わせていく。

俺は、この解釈を、実に俺自らの共感を籠めて練り上げた。思い返してみると、俺は何時でも、いかに巧みに役割をこなしてみせるかということにだけ注意を払いながら生きてきた気がする。そして、ある役割の最も理想的な遂行者とは、どんな点でも特出することなく、まったく没個性に、その役割の典型に身を委ねられる人間のことだ。俺はまさしくそうだった。あらゆる点で、俺は凡人だったし、凡人であろうと努めていた。だからこそ、俺は学校でも、会社でも、なかなか有能で、しかも仲間に嫌われたことなど一度もなかった。だがしかしだ、それでも俺は、何時も不満だったし。俺は、本当の俺は、もっと別の姿をしていると信じていたし、その表れを夢見ていたとさえ言ってもいい。

そして、誰かに役割の奥にいる「本当の自分」見抜いて欲しかったと。


誰もが「本当の自分」を見抜かれたがっている。

『最後の変身』には、主人公の男の様々なエピソードが書かれているが、僕が一番印象に残っているのが、男がキャバクラや風俗で働く女性とすぐに仲良くなるための「口説き文句」の話だ。

俺は女が、しきりに、料理が得意だとか、部屋がきれいだとか、父親の誕生日にここのバイト代でネクタイをプレゼントしてやっただとか、つまりは「こういう場所」で働いている女にはいかにも似つかわしくないような話を、調子っぱずれの明るさでし続けるので、「へぇ、本当は結構、女の子っぽいんだね。」とか何とか、適当なことを言ってやった。ところがだ、女はその言葉にすっかり感激しきった様子で、「そう。こんな仕事してるけど、実はマジメなの!」と、明らかに今までとは違った、もっと親しげな、プライヴェートな感じの口調で言った。

この「本当は」という言葉の効力の検証を男は次々と進めていく。「本当は優しんだね」「本当は繊細なんだね」「本当は寂しがり屋なんだね」といった具合に、相手に合わせて巧みに使い分けていく。すると、多くの相手と深い関係を築くことに成功する。

今の自分は水商売の女という姿をしている。けれども、本当の自分は、その姿(役割)の中に閉じ込められていて、別にいる。だから、その自分を見抜いてくれたことに深い信頼感を覚えて、心を許す。そう男は分析する。

次第に実験の対象範囲は広がり、会社の同僚や取引先の担当者、大学時代からの友人などに対しても「本当は」の効力を検証するが、どれも反応は変わらないことがわかってくる。世間では憧れられているような職についている人たちでさえ、同様なのだ。

世の中の人間は、どいつもこいつも「見抜かれ」たがっている。何だっていいんだ。ただ、自分の姿に表れてさえいなければ、それで十分に胸をときめかすだろう! もし心当たりがあるならば、本当の自分というものが、やはり確かに存在するのだと安心するのだろう。心当たりがなければ、それを、自分でも気づいてはいない、新しい可能性と信じ込んで興奮するのだ。

僕も「本当は優しいんだね」みたいなことを言われると、コロッと相手に気を許してしまいそうになることがある。「本当は」の言葉によって、自分の中に「何者」かの萌芽を見つけたことによる感激ゆえなのだろうか。


役割が「本当の自分」と合致しない苦しさ

主人公の男は、「これぞ自分の真の姿!」と思える「役割」と出会うことによって、「本当の自分」が見出せると信じていた。

だが、一向に自分の真の姿を照らしてくれる役割は見つからない。

確かに、職業や「〇〇の夫」のような社会的役割は、一人ひとりが何者かであることに見えやすい形を与えるものだ。社会は、その形を通じて、その人物を認識する。にも関わらず、その役割が「本当の自分」の姿と合致していないと感じる場合は、どうすればいいのか? ここに『最後の変身』の大きな主題があると思う。

もちろん、与えられた役割に満足するという手もある。ただ、この「何者かにならなくては」病が蔓延する現在では難しいことだと思う。主人公の男は、こう述べている。

 もしもだ、俺のこのブタのような自我が、もう少しだけ控え目なものだったなら、俺はきっと、「名もない一市民」というささやかな役割に一生を捧げることが出来ただろう。だが、とてもじゃないが無理だ。ああ、俺のこの誇大妄想も、やはり、時代の病なのではあるまいか? 人間は、自分が恐ろしく「ちっぽけ」なものになろうとしている時、ヘラヘラ笑ってそれを受け入れるほど、都合よくは出来ていないんだ! 世界がうんと膨張していくなら、それに合わせて、自分も大きくなりたいと願うのは当然じゃないのか?

インターネットにより、世界は膨張した。自宅にいながらでも、全世界の情報にアクセスできるし、世界に向けて発信もできる。確かに、以前と比べて、一人ひとりの自我が拡大するのもうなづける。この男の「何者かになりたい!」という切実で逼迫した想いには、どこか共感を覚えてしまう。

同時に、役割こそが個人が「本当の自分」を実現する唯一の手段だと考えるなら、その役割を失った人間は、自分自身の姿をどう見つめるのだろうか?

「ひきこもり」のきっかけで多いのは「退職」や「職場でのトラブル」と先ほど述べたが、これは役割を剥奪されることだ。そして、多くの中高年の男性の場合、職を失うことは、「一家を経済的に支える大黒柱」としての役割も同時に奪うことになる。そうして、「本当の自分」とは違う姿を他人に見られたくないと思い、自室にひきこもってしまうのではないだろうか。


「自分の役割」に依存してはいけない。

この『最後の変身』は、最後まで希望を見出せないまま終わる後味の悪い小説でもある。だが、繰り返しになるが、これは始まりの物語であって、この主題は『決壊』『空白を満たしない』など以降の小説へと受け継がれていく。この主題に平野さんがどう立ち向かっていくのか。これが、平野作品を追う最大の醍醐味だと思ってる。

そして、『最後の変身』を読んで、ハッキリと感じることがひとつ。

それは、自分のアイデンティティを「自分の役割」に極度に依存してはいけないということだ。

職業も、家族内での役割も、外部から突発的な要因で突然剥奪される可能性はゼロではない。急な事故にあったり、家族に急な介護が必要になったり、何が起こるか分からない世の中だ。今やっている仕事が突然出来なくなったり、一家を支える立場から支えられる立場に急変する可能性もある。その時に、「これは本当の自分じゃない」と自分を否定すると苦しくなってしまう。

社会的な役割ではないものに、自分のアイデンティティを見出す。

これは、自分を愛するための足場となる「分人」を探すという、平野さんのその後のテーマに繋がることだと思う。

自分の職業や家庭内での役割に誇りを持つことは、もちろん素晴らしいことだと思う。それによって、得られるバイタリティは計り知れない。だけども、そこだけに依存してはいけない。そんなメッセージを、『最後の変身』を読んで、僕は感じた。

繰り返しになるが、この作品は「何者かにならなくては」という変身願望病と、現在社会で増え続ける「ひきこもり」という現象と、どう付き合っていくかを考えさせてくれる物語だ。

作品のなかに「どうすればいいのか?」という明確な解決策は提示されていない。でも、「なぜ、こういったことが起こるのか?」という背景への考察は鋭い。わからないでぶつかる壁と、わかってぶつかる壁は全然違う

もし「何者かにならなくては」とソワソワしていたり、「本当の自分」は別にいるんじゃないかと思い悩むことがあるなら、是非、『最後の変身』を読んでみてほしい。もちろん、その後は、『決壊』『空白を満たしない』へと足を進めてもらいたい!

・・・

あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

『最後の変身』には、社会に対する様々な鬱屈が吐き出されていて、そのどれが印象深くに残るかは、読み手によってバラバラだと思います。今回の記事では、「本当は」という口説き文句のエピソードが印象的だったと書きましたが、父親のリストラの話や、ネット掲示板でのやりとりなども、重みのあるエピソードとして記憶しています。

この『最後の変身』は、希望のカケラが全く見えない小説で、読んでいて鬱々とした気持ちになりますが、紛れもなく一読の価値がある作品だと思います。

特に、平野さんの新書『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んで、「生きやすくなった」と感じた人には是非読んでもらいたいです。そういう人は、おそらく『最後の変身』の主人公の苦悶に、どこかしら共感できる部分を見いだせると思うからです。

もしできることなら、『最後の変身』の主人公に『私とは何か』をプレゼントできたならば……と妄想したりします。

この記事が、『最後の変身』および平野さんの作品を味わおうとする人の何かしらの参考となったら幸いです。

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井手 桂司

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フリーランスのブランド・エディター。一人ひとりの持っている物語を、言語化し、発信し、届ける手伝いをしてます。 IKEUCHI ORGANIC、Oisix ra daichi、コルク…などのメディア編集を担当。noteでは好きな小説についての感想を書き綴っていきます。