“人”資産と、生きていける精神性
寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ…でしたっけ?俵万智作短歌。
一人暮らしには身にしみるこの言葉、昨今は特に、です。この“何でもない会話を気を遣わずできる相手”がそばにいるかどうかが、自粛生活の明暗を分ける気がします。
もちろん同居人がいても穏やかに話せる状況とは限らない。互いの交流全くなし完全無視の場合なら、同居よりも一人ぐらしの方がずっとましだろうし。
今は「家」の存在が、大きくクローズアップされるようになった時代かと思う。誰もが自分の中で考えずにはいられないはず。物理的な“自分の家”の居心地はどうなのかというのもあるし、精神的な意味での“自分の家”においても。
東日本大震災のときはそれを機に結婚を考える人が増えたと、まことしやかにニュースになったけれど、今は、それよりはるかに、「安心して頼り頼られる家族」を求める人が多いだろうと、推測する。
人を3つにわけるなら、仲良い同居人がいる>同居してないけれど仲良い人がいる>仲良い人がいない の順で安心、心が落ち着く。
このうち真ん中の「同居してないけれど仲良い人がいる」は、かなり左右の間でグラデーションあり。どんなに親しい間柄でもよほどでない限り気は遣う。同居でなくても気を遣わない相手がいるならば、それだけですごく心強いこと。
“うちなる孤独”とどうつきあい生きていくかは、すべての人の命題だけど、感染症蔓延の中で、それは生死と直結した大きな課題となった。
グラデーションの右に近い人ほど、回りの人を、“どこまで親身になってくれるか”“どこまで頼れるか”ってものさしで、測るようになったと思う。自分の真の“人”資産はどの程度か。
みんな、自分も、「はやくのびのび旅行したいねー」「春になって温かくなれば大分落ち着くよねー」などなど、希望を話して励ましあいながら、もう何か月、何年…。
今が有事であると認識してはいけない。悲観的な見方はタブー。そんな不吉なことは言ってはいけない、言いたくない、怖すぎて。ほら、外国ではもうマスクしてないし、世の中経済回さなきゃ、感染症とはうまくつきあっていかなきゃ…うんうんと頷きつつも。
胸の奥で鳴り続けるアラーム。あなたの生死は大丈夫かと。
生死は物理的なことのみならず。精神的に生きていなければ、ただ息をしているだけの存在では“人として”生きていない。
今私は、「人はひとりで生きていけないものなんだ」ということを、人生初めての強度で、実感している。