文字を書くこと

PCやスマホ、タブレットのおかげで文章を書くことが以前よりも身近になりました。

今こうしてnoteに駄文散文を連ねられるのもPCを手にしてからのことです。

今日、リモートワークで自宅から仕事をしている中、少し気分転換に部屋を整理していた際、新入社員の頃のノートが埃をかぶった状態で発見されました。

パラりとめくると、まさにピカピカの社会人1日目、4月1日の日付のあるページには、ご丁寧に定規で、入社式の答辞か何かの社長の言葉のメモに強調線を引いたり、またその文字が、自身が書いたとは到底覚えないレベルのキレイな筆致で描かれていました。

4月3日は研修での反省事項に対して「乾坤一擲!」という妙に古めかしい言葉が矢印で指されていました。きっと意味も深くわかっていなかったものの、なんだか小難しい言葉を書き連ねたかったのだろうな、と過去の自分をしみじみ眺めてしまいました。

そしてどんどん後ろのページに行くにつれて字が乱雑になり、文章が支離滅裂になり、果ては完全に会議中に寝落ちしていたのだろうと思われる、ノートを横切る謎の一本線があり…

そしてノートは一応最後のページにまでたどり着きましたが、最後の数ページは、明らかにコーヒーを零したようなシミがうっすらと残っており、かえってそれが、古文書のような雰囲気を醸し出すことに一役買っていました。

最近では、めったに文字を書くこともなくなりました。

メモはPCやスマホのメモ帖機能を主に使っており、リモートワークが主流となってからは物理的なメモ帳を持ち歩くことは稀です。

ただ、実際に過去のノートを見て思ったことは、手で文字を書いたときの記憶は、見たとたんにゆっくりと、その文字を通して蘇ってくるものだなということです。

筆跡が、その時の自分の気持ち、感情を率直に表していて、手書きの文字を入り口に、過去への扉が開かれるような、そんな心持でした。

PCでのタイプ文字は、常に一定でぶれることもなく、一言一句確実に、将来の自分にその当時の気持ちを残してはくれます。

ただそれは本当に機械的で無機質です。正直なところ、僕が書いたかどうかを10年後の今日証明することは、実のところ難しいかもしれません(僕はできませんが、今や他人のアカウントを奪い取って、成りすまして書くことだってできるわけですから)。

加えて、ノートの筆跡は自分の成長をも写しているような気すらするのです。

会社や社会から得る情報や知識を、とってもピュアな視線や感情で記したり、マーカーを引いたり、感情記号を付けているページが、ゆっくりと減っていき、徐々に専門用語の殴り書きだとか、「誰がキーマン?」というメモにみられるような、会社における処世術を身に着け始めたであろう内容に変わっていく様は、苦笑いすら浮かんでしまいます。

ただ、自分自身がどのタイミングで、何をきっかけに変わっていったのかは、薄っすらですが、そのノートを見返すと思い出されてきます。

今、自分自身は何か成長したのだろうか?とたまに思い悩んでしまう時もありますが、今日、たまたまそのノートに触れたことで、自身も大きく変わったのだな、と実感することができました。

小学生や中学生の時の、国が定めたカリキュラムに沿った成長とは異なる、何か生臭い人間模様だとか、まざまざと突きつけられる現実という臭みのある日々が、ゆっくりと僕を変えていったことがわかるのです。

今こうしてnoteに日々の体験を綴り続けていますが、1年後見返したときに、自分事として蘇ってくるのでしょうか。

1年後、またこの投稿を見返してみたいと思います。その時に、また同じように「自分は変わったな」と思えるのでしょうか。1年後の自分にドキドキです。



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