落合博満の『嫌われた監督』から学ぶマネジメントの役割
『嫌われた監督』を読んだあとに川上憲伸のカットボールチャンネルと井端弘和のイバTV、燃えドラchのトークセッションを全部みたのは世界広しといえども自分くらいしかいないのではないか、と勝手に思っている。
小さい頃からプロ野球が好きだったので、この本の中に登場する選手たちは皆知っている方々ばかりだ。当時から巨人というか二岡ファンだったので、落合博満の中日ドラゴンズは立ちはだかる強敵、という印象が今も残っている。
息の詰まる投手戦で、8回を抑えられると岩瀬が登板するためほとんど勝ち目はなかったな、と。
そんな記憶を思い出しつつこの本を読み進めていると、当時は気づかなかったでは新たな落合博満像を知ることになった。
監督として、いかに選手と接してきたか。マスコミとの間でどんな戦いがあったのか。それぞれのエピソードが記者の目線、選手の視点を交互にして描かれている。
そこで今回は本のエピソードを題材としつつ、YouTubeチャンネルや過去のインタビュー記事をもとにして、落合博満から学ぶマネジメントの役割について、書いてみようと思う。
常識にとらわれない改革をする
落合博満が就任してまず最初に行った改革は、キャンプが始まる2月1日に紅白戦(チーム内の練習試合)を実施することだった。
通常プロ野球のキャンプは2月1日からスタートする。その日に紅白戦があるということは、正月休みもほどほどに、体を鍛えて準備をしなければならない。
落合いわく「選手たちが休みの間に体調管理をしないから」とのことだった。
従来から続けられてきたことを大きく変化させるのは、とてつもないエネルギーが必要だ。それを変革することは、全体を俯瞰できるからこそできることである。
落合の改革は紅白戦にとどまらない。初年度の開幕投手に、過去3年一度も一軍で投げたことのない選手を抜擢したのだ。川崎憲次郎は、ヤクルトから移籍してきた投手だった。1998年には17勝で沢村賞と最多勝を獲得するなどエース級の活躍をしていたが、肩の違和感で長期離脱を余儀なくされていた。
そんな川崎をシーズンの中で特に注目が始まる開幕投手に選んだのは、落合なりの理由があった。
引退試合として、選手の背中を押すための機会として開幕戦を使う。初戦の広島戦の先発が黒田だったので、エース川上憲伸で負けるよりもダメージが少ないという考えもあったようだが、それでも常識にとらわれない采配はチームに大きな影響を与えた。
川崎憲次郎は初回を三人で抑え無得点に。続く二回に5失点で降板したが、井端、リナレス、立浪、福留らの活躍により8-6で勝利。
最終的に、2004年のシーズン優勝を成し遂げた。
実は落合監督が先発を選んだのはこの時だけであった。しかし落合率いる中日は何かしてくる、という印象を植え付けることに成功したのである。
学び
既存のやり方を変えられずに今日まで来てしまった、というのはどこの組織でもあり得る課題である。その状況を打破するために声を上げるべきなのは誰か。
それがマネージャーである。
もちろん自分の中にアイデアがある場合もあれば、メンバーの一言がきっかけになることもある。
中には言いにくいこともあると思うが、常識的に考えられてきたことに一石を投じる勇気が、その後の組織を大きく変えていくのだ。
行動経済学には現状維持バイアスという言葉がある。変化することで「何か得られるかもしれない」という期待よりも、「何か失うかもしれない」という不安のほうが大きく、現状を維持しようとするバイアスのことだ。
客観的な視点を常に持ち、必要な改革を提言できるように備えておきたい。
本質は管理するのではなく、任せる
策士の印象が強い落合博満であるが、実は初年度の開幕投手以外はすべて森繁コーチに任せていたというのはあまり知られていない。
多少なりとも監督がローテーションなどに絡むことはあるのが普通だが、森繁和コーチに一任されていた。
学び
マネージャーたるもの、全てを知っているべきだ、聞かれたことには答えられるように日々学びを深めておくべきだ。と思うことがあるかもしれない。
学習すること自体は非常に重要だ。だが、自分が全てに目を向けようとすると、組織のスピードも、クオリティも停滞してしまう。
自分よりも詳しいものがいれば、重要な決断であっても任せる。自分よりも上手にこなせるものがいれば、やりたいことであっても委譲する。
そうすることで一人では1.0倍が限界だったものが、よりスピードを上げ、クオリティを上げていく。
組織だからこそ、個人の成果ではなくチームの総合力に目を向けることが大切である。
自分だからできる決断をする
当時の中日には、ミスタードラゴンズと呼ばれる選手がいた。立浪和義である。PL学園からドラフト1位で入団し、生え抜きで一年目にして開幕スタメンに選ばれるなど、輝かしい功績を数えればきりがない。
その立浪を、別の選手と競争させる決断をしたのが、落合監督だった。
功労者であるベテランを外すというのは、非常に勇気のいることである。一方で成績が低迷気味の選手であっても、なかなかスタメン落ちせずファンがやきもきする、というのはプロ野球においてよく見かける光景である。
落合監督は、前年もまだほとんどフル出場していた立浪を、当時ブレイク前の森野将彦と三塁の座をかけて争わせた。一時は森野の怪我もあり立浪が三塁を守ることもあったが、シーズン途中から森野が復帰すると、立浪はスタメンから遠のいていくことになった。
振り返るとちょうどその頃、立浪の守備に衰えが見え始めていたことがきっかけであった。とはいえ球団のスター選手を世代交代させるというのは大きな決断といえる。
とはいえ、ここにも落合監督なりの理念がある。以下は2019年に根尾が入団する際、正遊撃手の京田に代わってスタメンもあるのでは、という話題になった際のコメントだ。
二人の能力を比較する機会を与えずにポジションを与えてしまっては、奪われた側としては納得がいかない。また見える理由を示さないことで、チームの雰囲気も悪化してしまう危険性もある。
世代交代のきっかけをつくったのは落合監督だが、誰もが納得できる形にすることで、自然な交代を促すことに成功したのだ。
学び
組織を前に進めていくため、時には痛みを伴う決断をしなければならないことがある。当然批判や反対意見もあると思うが、そのときこそ納得感のあるメッセージが伝わっているか、注意深く観察する必要がある。
特に人が関わる改革の際には、納得感が大きく組織に影響を与える。事業成長のために必要なことだったとしても、受け取られ方は意識しつつ、思い切った決断を心がけていきたい。
今ではなく、先を読んだ行動を
立浪の世代交代と同じくらい大きな決断が、アライバのコンバートである。
二塁手の荒木雅博、遊撃手の井端弘和といえば落合率いる中日ドラゴンズの鉄壁守備の象徴だ。しかしその二人の守備位置を変えたのも、落合監督であった。
6年連続でのゴールデングラブ受賞歴を持つ荒木は二塁手から遊撃手への役割変更で、20失策を記録した。(それまでの最高失策数は12回)
一見不可解に見えるコンバートだが、ここにも落合流の考えがあった。実はこの頃、井端の守備範囲が狭くなりはじめていたのだ。加えて荒木のスローイングは一塁手の外国人選手がすぐにベースに入らないこともあり、待って取ってしまうくせがついていた。新たな環境に挑戦させることで、守備の復活を待つ、というのが真意だったということだ。
結果的に荒木は現役23年という息の長い選手として活躍し、井端も二塁手コンバートの経験を生かして日本代表に選出されるなどの実績を積み重ねた。
今に目を向ける、すなわち短期的には悪く見えることも、中長期を見据えるとよりよい結果を得ることができるのだ。
学び
成長する組織は、常に飛躍成長が求められる。そして、目標はどんどん高くなっていく。気づけば目の前のKPIにとらわれてしまいがちだが、そんなときこそフッと目を遠くに向けるべきなのだ。
今期の目標は達成できるかもしれない。ただ、同じことをやっていては、来期の達成は到底無理となる。
もしくは無理をさせすぎることで疲労困憊に陥り、持続可能な成長が見込めない、となるかもしれない。
一見、今の成長が鈍化したように見えるような施策となるかもしれない。それでも中長期的に見ると、より大きな成果を得ることができる。現時点のKPIだけに目を留めていると取りづらいアクションが正解となる可能性もある。
それを決断できるのは、普段から視野を広く持てるかにかかっている。
今のことはメンバーに任せ、先を考える余裕をつくる。そのような時間の使い方が求められるのかもしれない。
信頼できる組織づくり
落合監督のエピソードは、外部に嫌われてでも、成果にこだわるという面にスポットライトが当たりがちだ。しかし裏側には、信頼できる組織作りがあったということを忘れてはならない。
それを象徴するエピソードがある。
2007年の日本シリーズ第5戦、中日は3勝1敗で日本一に王手をかけていた。ナゴヤドームでの最終戦、仮に敗れれば舞台は北海道日本ハムファイターズの本拠地、札幌ドームへ移動する。
この試合、ファイターズの先発は第1戦で日本シリーズタイ記録の13奪三振で完投勝利を収めたダルビッシュ有だった。
試合は息を呑む展開となった。
2回に中日はダルビッシュから犠牲フライで1点を奪うも、その後は一点も奪うことはできずにいた。対する中日の山井大介も下馬評とは裏腹に快投を続けた。
これだけ見れば、日本シリーズに相応しい投手戦だが、球場はそれ以上の緊迫感に包まれていた。先発の山井が一人のランナーも許すことなく、8回を投げ終えていたのだ。
仮に9回を投げ終えれば、完全試合達成となる。完全試合というのは非常に珍しい記録である。70年の歴史を持つプロ野球でわずか15回しか達成されておらず、1994年5月18日の読売ジャイアンツ槙原寛己以来、誰も達成していない。もちろん日本シリーズでの達成となれば、史上初である。
しかし、9回のマウンドに山井の姿はなかった。
落合監督はここまで無安打無四球に押さえていた山井に代えて、抑えの岩瀬仁紀を送り出したのだ。
当然9回も山井が投げるものと思われていたナゴヤドームでは「山井コール」が響き渡っていたが、投手交代のアナウンスが告げられるやいなや、どよめきによる異様な雰囲気に包まれた。
史上初の偉業が、夢に終わる。
だが、それはある意味当然と言える交代でもあったのだ。
当日の中日にとって岩瀬は絶対的存在だった。8回までにリードしていれば、岩瀬に繋げば勝てる、という絶大な信頼を持っていた。一方この年の山井は6勝4敗、防御率3.36と、今ひとつの成績だった。
また中日にとって日本一は、1954年以来2度目の出来事だった。
仮にここでファイターズが勝つようなことがあれば、本拠地札幌ドームへ舞台が移り、勢いに飲まれてしまうことは間違いない。
スコアは1-0、僅か1点差だった。
もちろん完全試合はとてつもない出来事であるが、ファンにとっての悲願である日本一も、それ以上に重要な出来事であるのだ。
一時はどよめいた観客も、53年ぶりの優勝に向けて、再び熱気を帯び始めた。
そして代わった岩瀬は普段どおり抜群の安定感を見せた。1アウト。2アウト。そして、最後の打者をセカンドゴロに打ち取ると、ナゴヤドームは歓声に包まれた。
落合監督はこの場面をこう振り返る。
岩瀬がいるから、で一年を勝ち抜いてきたチームだからこそ、最後を岩瀬に任せるというのは、監督にとって勝利に一番近い選択肢であったのだ。
それはチームメイトにとっても同じだった。遊撃手の井端は当時について、こう語った。
チームとしての目標はなにか。そして達成に向けた最善策はなにか。
一朝一夕では身につかない組織としての強さを、追うことができるからこそなせる意思決定だったのだ。
学び
One for all, All for one. という言葉があるが、体現するのが困難な場面はいくつもあることだろう。組織が大きくなれば、なおさらだ。
だからこそ、日頃から信頼できる関係性と共通イメージを持っておく必要がある。中日の誰もがが岩瀬に任せればきっと抑えてくれると感じていたように、
と、未曾有の事態に直面しても、逆転不可能な窮地に追いやられたとしても、団結力を失うことなく前に進むことができるはずだ。
メンバーと向き合う
実は前述の「継投完全試合」には裏話がある。落合監督が決めたように見えたこの継投は、最後は山井自身の決断だった。
もちろんチームとしては優勝するための最善を尽くすべきである。しかし一方で、個人の意見もその裏側で尊重されていたのだ。
学び
組織が成長するとき、最初の頃からいるメンバーは戸惑いを覚えることがある。また新たに加入したメンバーは馴染めずに困惑することがある。
だからこそ、メンバーと向き合うことがとてつもなく重要なのだ。
組織がいま進むべき道はこうであるとか、今求められている役割はこうだとか、それを伝えることも大切なマネージャーの役割である。
しかし、それだけではいつか歯車が狂う日が来る。
組織のメンバーである前に、一人ひとりの人生がある。それを忘れてしまっては、持続的な成長をすることはできない。
最後に
ここまで落合監督から学んだことを自分なりに解釈して、マネジメントの役割に落とし込んでみた。
自分自身、まだマネージャーとしての活動は1年足らずだが、その中ですでに多くの難しさに直面してきたのは事実だ。
しかし、それは落合監督も同じであったと思う。失敗を繰り返し、そこで得た経験を次に活かす。そうやって成功の確率を上げ、組織の総合力を上げていったのだ。
失敗を恐れず、挑戦を続け、学びを蓄積する。
今後もこの姿勢を忘れずに、成長を続けていきたい。
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