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カンタベリー地震から10年

10年前の今日は、酷く不安で怯えて怖がっていた。
カンタベリー地震でCTVビルの中にいた友達が行方不明なった。
絶望な気持ち
受け止められない気持ち
泣いてはいけない、絶対に助かっていると信じ続ける事に神経が削れて行くのがわかった。
しかし信じるしかない、絶望でも信じるしかない、信じなければいけない。
それでも、それでもととにかく前向きで良い未来を描く祈りというものに必死だった事を思い出す。

まだ話すべき事、伝える事があった。
関空を出発する日に電話がかかってきた。
その時と話をなんとなくも覚えているが、
「今までありがとう、さようなら」と言ったから「そんなもう会えなくなるような言葉はおかしいだろ」って言うと、
「そうだね、でも次会う時は今までの私ではないから。本当沢山のこと教えてくれたから、ありがとう。」という会話だけは焼き付いている。
Im in NZ!というFBのポストを翌日に確認した。
この日から二度とポストも自分のメッセージの返事も返さなくなった。
毎年の誕生日のおめでとうも謝ってもどれだけ話すことも伝える事もしてももう返事はない。


無事を帰ることを待って、願っていた。
全く無力の自分のメッセージと最後のレスポンスの履歴だけはFBに今もまだ残っている。
感情の波が激しくて、きっと大丈夫だろう!と前向きになった夜に謝りたい気持ちが起きてくる。また絶望に襲われて。

新聞とかテレビ局からSNS伝いに沢山連絡が来た。
今の心境をインタビューさせて欲しいというメッセージばかり無神経。全部無視した。

マスの日々の報道、見たくなくで聞きたくなくても入ってしまう。
地震だけでなく、運命とか人も世間も無力な自分も全て憎んでいた事もあった。

あれから仕事を辞め、住む場所も映り、旅に出て、環境を変わった。

無心に目的のない旅をする事に自然に足が向いた。特に日本だった。
日本全国を旅した。
後悔ないよう会えてなかった友達に会いに行った。

なんとなく知らない風景や土地がとても楽だった事、なんとなくそんな景色や土地の中にふわっと向こうに友達の姿がいるような気がした事、誰もいない山に登ってみたり神社に訪れて手を合わせて目を瞑ったりするとなんとなく会えてる感じがしたからだ。
そんな旅を繰り返して行くととても穏やかになった。

ふと思うと能のシテとワキのようだった。
鎮魂というのは互いの魂を鎮める事だと思う。
これは弔いの旅なんだなとなんとなく思って歩いて行った。
なんともない風景、誰もいない海、もう二度と通らないだろう道。
そんな場所にも思い出が残り、見つけるものがある。
旅は非日常だから新しい発見や出会いに合う。
この時間は常に未来に向いているから好きだった。

誕生日を迎えた二月四日、
その月の二十二日に地震。
見つかったのは三月十四日。
彼女は逝ってしまった。
毎年おめでとうという気持ちと共に
あの時の事を必ず思い出す。

あの日、デスクに向かって仕事に必死で
Yahooの地震のトップニュースも目をやったのに気も向けず、ステイ先のホストからのskypeでの連絡でハッとなり、凍り付いた自分をやはり今でも悔やむ。

あの時期はただただ忙しく仕事をしていた。
慣れや若さから来る利己、厳しい現実や壁に葛藤しながら、色んな事が重なり、働くことにキラキラ光るような姿勢は年々と感謝も薄れていった時期だった事もある。
311も重なり気持ちを落ち着けてから環境を変える事、旅に出る事を決めた。

その後の仕事では、新会社、新規事業立ち上げの話を頂き、苦しみながらも取り戻したい気持ちで自分で言うのもなんだけど、決して楽ではないので環境に挑戦し止まる事なく働いた。出来る限りを取り組んできた。

その結果、感謝の心をこの歳で改めて学べた事がこよ10年間で一番の大きな財産だなと思う。

腐った時期はあったもの10年間の区切りとして、10年前の今日の自分に成長したよ、と自信も持って伝えたい。
世間の流れとは離れてゆったりではあるけれども顔向けは出来る。なんとなく成長させて貰えてる。

忘れられない出来事とお別れと、命の大切さに
多くの学びとそれからの出会いにも繋がった。

まだまだ未熟ではあるけれどもこの出来事は、二人分の命を生きると思わせてくれた。
そんな意志を持つ、気の引き締まる中で11年目もまた迎えたいなと思います。

9年前に東京に来てから
しばらくお参りに花も持って行っていない。

墓地までの高台を登る坂道の桜並木に
竹内まりやの人生の扉という曲を聞いていた。
歌詞を思い出す度に苦しかった。

散る桜
残る桜も
散る桜

という詩を最近見つけた。
それからは自分も散る桜なのだからまた今年桜を見れるたなと喜ぶ事にしてみている。

言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!