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二〇二四年五月、洗い物。

二〇二四年五月
夜中に洗い物をしている。
泡を流すとき、指先を繊細に動かすと、大切なことをしているのだと思えて精神に優しい。
自分の指が美しい動きをしているのも見ていて心地よい。思えば人は手を使うとき、自分の手先がどのように動いているかなどまったく意識していないのではないか。これはもったいないことだと思う。

ただ、麦茶ポットの泡を流しはじめると途端に不安になる。

はじめのほうはまだ泡だらけで、中の水が泡立たなくなるまで、擦ったり傾きを変えたりしながら何度か水を満たすのだけど、このときなかなか満杯にならないのがどうしてか恐ろしい。

永遠にこのまま、満ちることないポットに水を注ぎ続けなければならないのではないか、そんな抜け出せない怪奇現象に見舞われているのではないか。

そういうことを、考えるのではなく、感じてしまう。これはよろしくない。指を繊細に動かした程度ではどうにもならない。何かを変えなければならない気になってくる。

少し考えて、週末、中身が見える透明なポットに替えようと決めた。

ところで、注いでも注いでも満ちないものと言えば、それはやはり人の欲ではないだろうか?

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