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岩手旅記

 二十歳になる冬、私は一人で岩手に行った。

 ずっと、私は二十歳になるのが嫌で嫌で仕方がなかった。満足できない、好きでもない今の自分が大人の仲間入りをするのが怖くて、このまま自分が何らかの未来を歩んでいくのがおそろしくて、たまらなかった。私が生まれたのが父親が二十歳の時で、父が父(それもロクデナシの)になった歳を追い抜くのも、憎らしかった。私にとって、大人は醜くて、複雑で、難解だった。絡まって解けない糸のように交錯した物事や人間関係に付き合うために必死にその糸を解こうとする、背中を丸めたような姿は滑稽で、そこに自分が混じっていくことは、さも苦しくて息が詰まるように感じられた。

 旅には色んな種類があると思う。家族旅行、修学旅行、新婚旅行、友達との旅行、さらには自分探しの旅…

 私にとっての場合、なんとなく、旅は自殺に似ていると思う。
 自分を取り巻く環境から、もっといえば自分自身から、逃げて、逃げて、遥か遠い場所に行きたい。今の状況に蓋をして、目を逸らしたい。旅に出たくなる感情と自殺願望はそういう根っこにある感情が似ているなあと思う。
 そんなわけで、どうにかして二十歳になる自分から逃れるように、旅先で誕生日を迎えよう、ということになった。二十歳になるということを差し置いても、その時期の私は色んなことが嫌で、毎日が苦しくて、そんな状況から離れたい、という気持ちもあった。
 行き先はどこか遠くならどこでも良かった。そこで、九州で育った私には縁遠い東北にすることにした。花巻にある宿に惹かれて、岩手にしようと決めた。

 実際に岩手に降り立って、ああ、なんだか普通だなあ、と思った。
 私がどこか思い描いていたような現実世界とかけ離れた桃源郷はそこにはなかった。場所は違えど、人々は日々関わり合って暮らしている。どんなに遠く離れた地でも、たとえ地球の裏側でも、人間が人間として生きていく限り、それは変わらない。そんな当たり前のことを、遠く離れた岩手の地で初めて実感したような気がした。
 どこであっても田舎の雰囲気は似ている。行き交う人々の感じも、建物も。一時間に一、二本しかこない電車も、その電車が二両しかないこと、その中にたくさんの大人や学生たちがぎゅうぎゅうに座っているところもおんなじだった。故郷と違うのは、訛りと、吸った時の空気と、前を見た時に見えるのが阿蘇山より広くて荘厳な奥羽山脈であることくらいだった。

 そのことを含めて、行ってよかったなあと思う。その頃の私は夜上手く寝られず、寝ても何度も朝方に起きて、それでいて朝は起きられない日々を繰り返していたのだけれど、温泉で温まって、美味しいご飯を食べて、久しぶりにぐっすり眠れて朝に自然と目が覚めた。それだけで、この上ないほどの幸せを感じた。二十歳になった日、たくさんの人からお祝いのメッセージをもらって、皮肉にもいつもの自分の生活から少し距離を置いたことで、今周りにいる人に愛されていることを感じた。
その日の夜に飲んだビールは苦かったけど、美味しかった。

 貧しいことは惨めだと思う。
 貧乏な人を惨めだと嗤うのではない。金銭的な貧しさであろうと、心の貧しさであろうと、貧しければ、とにかく衣食住を成り立たせて生き延びることで精一杯になる。他のことを見る余裕がなくなって、どんどん視野が狭くなっていく。豊かさを失って、生活が色のない、モノクロのものになっていく。そんな自分自身のことを自分で惨めだとなじるようになる。衣食住は人が生きるための必要条件だが、必要十分条件ではない。生活には豊かさが不可欠で、貧しいこととはつまり、豊かさを失っていくことである、と私は思う。
 貧しさの病に取り憑かれて、現状を前向きに変革しようとする気持ちを忘れてしまった人々は、衣食住に関係ないものを、不必要で無駄なものだと切り捨てるようになる。時には、見下しさえするかもしれない。旅なんてものは眼中になくなる。ただの金の無駄だと嫌悪する。そのうちに色のある生活が存在することすら曖昧になって、変化を忌み嫌うようにさえなって、モノクロの日々に半ば自主的に閉じ込められていく。モノクロの毎日を肯定して、その中でしか生きられない(本当はそんなことはないのだけれど、そうとしか思うことができない)自分を保つために。

 今まで、そのような価値観をどこか強制され縛られて生きてきた。旅をしたいと思ったのは、モノクロの世界に色を加えたいと心のどこかで望む気持ちがあったこともあるのかもしれない。

 旅の中で、タクシーの運転手さんや宿の従業員の方など二度と出会うことはないであろう人々の優しさや思いやりに触れること、滅多にいくことのできない場所に赴くこと、そして、それらに思いを馳せること。それによって、自分の中に飽和して溢れた感受性を発散させること。
 それらが自分を豊かにし、生活に彩りを与える。そして、その経験がいつかの日の自分を救ってくれるのかもしれない。
 岩手花巻の湯治場の、さらさらで滑らかな湯に浸かりながら、そんなことを考えた。


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