ドストエフスキーの罪と罰。

名作「罪と罰」

小説はあまり読みませんでしたが、エーリヒ・フロムの「聴くということ」の中に、「人間を理解するには、精神分析の技法の本を読むよりドストエフスキーあたりを読んだ方がよっぽどいい」的なことが書かれていたので、早速「罪と罰」を購入。

購入して

購入したときにふと「自分はもっと人間のことを知りたい」という気持ちに気づく。そしてフロムが好きなことにも気づく。

私たちはふとした選択、行動、言動を通して「自分」というものをより知っていくのではないかなんてことを思う。そうなってくると、ますます精神的な自己はどこにあるのかわからなくなってきますね。

いつものように「罪と罰」Amazonレビューを見ると、評価は高く、レビューの中には、「もっと早くこの本に出会いたかった」という声もちらほら見られ期待は高まるばかり。しかしながら、長いので読破するには時間がかかりそう。

あらすじ

「鋭敏な頭脳を持つ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来あわせたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第2の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。」※本文そのまま。

犯罪者視点の物語ですね。ラスコーリニコフの心理描写が多そうで勉強になりそうな予感。

読む前の感想(あらすじ感想)

「みじめな自分を発見しなければならなかった。」

これは他人事ではないですね。私たちも時折、何か行動したり、喧嘩をしたり、失敗したりしたときに「みじめな自分」を発見します。

「みじめな自分」を発見したあと、ラスコーリニコフはどうな風に生きて行くのかが楽しみですね。

みじめな自分を発見したときに私たちはどんなことをするのか考えてみると、こんな感じ。

・みじめな自分にならないように少しずつ努力していく。

・ただ、ただみじめな自分に落胆する。後に他の選択肢に移行するかもしれないし、しないかもしれない。

・みじめな自分も自分の一部であることを認めようと努力する。

・みじめな自分なんて気にせずに目の前のことに取り組む。

・そんな時もあると思い、再び何かに挑戦していく。

・みじめな自分を否定する。

・そもそもみじめな自分を発見できない。

自分はどの選択をする傾向が高いのか。これについても考えてみると、さらに新しい自分を発見する。

読む前にあらすじだけで、こんなに考えることができる作品はめったにないかもしれません。

とにかく楽しみ。笑

まとめ

ネガティブな自分の側面を発見したとき、note界隈のみなさんはどのようにしていますか?

参考

ドストエフスキー・訳:工藤精一郎(1987) 「罪と罰 上」新潮文庫

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