自覚と悟りへの道。(森田療法の本です。)
自覚と悟りへの道
という本を読みました。最近本を読んでるには読んでるけれど、noteの下書きがたまるばかり。やっと投稿にこぎつけました。
何を書けばいいのか迷ったので、とりあえず
目次を読んで疑問に思ったところ・面白そうと思ったところ(今回は4つ)
実際に読んでみて学んだこと、私なりの解釈
を書いてみようかななんて思います。
完全に私個人の読書復習noteになってしまっていますね。笑
こういう使い方もありなのかな?
印象に残ったことを4つ
・自由自在の境地に達するには?
自由自在の境地とは何なのか?という問があると思いますが、一言にすると、「注意が全身に行き渡っていて、どんなことにも対応できる」ような状態なのかななんて思います。※あくまで私の解釈
森田療法では強迫性障害などは、「症状(不快感)に注意が集中してしまい、ますます症状(不快感)が鋭く感じるようになり、抜け出せない状態(とらわれ)になっているのではないか」と考えられています。
全身に注意がほどよく行き渡っているのではなく、どこか一点に集中してしまってる。確かに自由自在とは言いがたい。どうすればいいのか。
森田はこの本では方法論的なことはあまり述べてないですが、この節のなかで神経質に対しこんなコメントをしています。
「 立派な人になりたければ立派な人を見よ。神経質の場合は立派な人になりたいと思っているけれど、立派な人を見ようともせず、尻目にみて劣等感に悩み、劣等感を消そうと試みる。」
→結果的には、永遠に消えることのない劣等感を消そうと試みるよりも、とらわれながら目の前のことに嫌々取り組むと次第に自由自在になるよって話している気がします。私的にはもっとすげぇ答えを期待していたのでちょっとガッカリしましたが、この当たり前のことが大事なのかもしれません。
私の森田の尊敬する部分は、下手に劣等感を消そう・なくそうといっていない部分です。一見すると厳しい言葉に思えますが、決して劣等感がダメなんだなんてことは話していませんね。
・誤ってる目的論的な考え方
目的論ってなに?って思ったんですが、読み進めると、
成功するためには、自信がなければならない。
人前では、堂々と振る舞わなくてはならない。
読書して賢くなるためには、常に集中してよまなければならない。
↑これらは誤りとしているので、「~するには~でなければならない」的なことを目的論的な考え方としているっぽい。
これら目的論に対して森田は、
「かくあるべしというなお虚偽たり、あるがままにある、即ち真実なり」
現代語訳すれば、「~すべき、~であるべき、なんてことはなくて、恥ずかしいときは恥ずかしいし、自信がないときは自信がないし、苦しいときは苦しい、楽しいときは楽しいし、喜ばしいときは喜ばしい。→これが真実なんじゃない?」的な感じでしょうか。
独断と偏見ですが森田は、
無理に自信をつけようとしたり、恥ずかしがらないようにしたり、集中しようとしたりしてどうにかなりますか?
自信がなくても自信がないなりに取り組もう。
恥ずかしくても恥ずかしいなりに人前にでてみよう。
集中できなくても勉強しなければならないなら、集中できないなりに本を読もう。
これをしていくといつの間にか症状なんてどこかにいってるぜ?
こんな感じにいってるのかな~なんて思います。
・現在になりきる
なにやらこの節は禅っぽい香りがしたのですが、やはり同じような感じで、特別なことは述べていません。
今、苦しければ苦しいままに取り組む。これだけでしょうか。
・神経質者と職業
私の予測では、神経質なので研究職とか職人、あるいは人と関わることが少ない職がいいんかなと思っていました。みなさんはどう思います?
森田曰く、
向上心が強いからおおよそどんな職業でも平気だし、そこそこに発展していくことができるらしい。さらに内省性は失わないために、失敗は少なく罪を犯すことも少ない、自ら死を選ぶことも少ない。
結局のところ適切な職業に関しては述べていません。というかなんでも大丈夫だみたいな感じです。
神経質ってネガティブに使われることの多い現代ですが、素晴らしい気質なんですね。
ついでにここでは、釈迦も親鸞も白隠禅師も話を聞く限りでは神経衰弱なのではと森田は予測していました。
仏教と臨床心理学の関わりはやはり強いですね。
好きな一説
・「純なる心」から出発するときには、少しも「ために」することがありません。「ために」することがないから、人から誤解されることを恐れず、報酬がなくとも満足なのであります。
「純なる心」とはなんでしょうか。森田療法の本を何冊か読みながらもいまだに理解できていないところです。
「ために」することがない という部分もどういうことなのか。
「自分のために」「人とために」「会社のために」「目標のために」「目的のために」
どの「ために」なのか。
まとめ
この本を読んで気づいたところは、やはり腑に落ちない部分がまだまだあるな~というところです。
森田は自身の療法を「体験療法」と述べることがありますが、やはり体験してはじめて腑に落ちていくこともあるのだろうなと思いつつ、腑に落ちなければ腑に落ちないでそれが「あるがまま」なのかななんて思ったり。
あんまり考えすぎちゃうとわけわかんなくなるので(というかもうそれ)、わけわかんなくなりながら、また森田の本を読んでみたい。
読んでくださりありがとうございました。
参考
著・森田正馬
編・水谷啓二(2007) 「新版 自覚と悟りへの道」 白揚社
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