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無視された『凪待ち』

2019年6月28日、映画『凪待ち』(白石和彌監督)が全国公開となった。同じ日、映画の舞台となった石巻で、監督と主演俳優による舞台挨拶と一般公開記者会見が行われたが、いわゆる在京のテレビキー局の番組でそれが取り上げられることはなかった。

『凪待ち』に、その価値がないからではない。

本作は、昨年一昨年と2年連続でブルーリボン賞監督賞を受賞、『凶悪』『彼女がその名を知らない鳥たち』『孤狼の血』など多くの話題作で知られる気鋭、白石和彌監督の最新作である。
その話題性は、連日のように地方局、ラジオ、新聞、週刊誌、月刊誌、Webサイト等に取り上げられていることでも明らかだ。

また、震災や復興を中心に据えてはいないものの、「喪失と再生」をテーマに掲げた本作が、被災地・石巻で撮影された背景には、復興の途上にある現地の今を記録し、今一度、現地への思いを新たにする意図が込められているのは明白である。
そういう意味でも、「復興五輪」が喧伝される2019年という時期に、この映画が広く人々に届けられることは大きな意味を持つ。

初日の会見が、他ならぬ石巻で(それも震災当時、避難場所として使われたショッピングモールを会場に)行われたということ、
それさえも映画の宣伝に留まらず、この映画や会見の取材を通して被災地の現状や課題が広く伝わり、共有されることを期待する制作者の思いそのものだろう。

そして、これが制作者の独りよがりな思いではないことは、これに応える形で石巻市長の亀山氏が語った言葉でもわかる。
「素晴らしい映画がここで撮影されたことに誇りを持っています。映画とともに、石巻の観光推進に努めたい」
に込められた現地の思い。
それは、「どうか忘れないで」という切なる願いだ。

しかしこのままでは、特に東京では、そうした情報のほとんどは遮断され、多くの思いも願いも届かないことになる。
なぜこのようなことが起きているのかといえば、その理由は、主演の香取慎吾氏に対して続いているキー局の不当な対応と無関係ではないだろう。

私はこの数日、ずっと悲しくてたまらない。

今までにもう何度も、彼ら自身が、そして彼らの誠意や善意が踏みつけられるのを見てきた。
それなのになぜ今回に限って、これほどまでに悲しいのだろう。

それは、彼らの存在を無視するということが、その背後にあるたくさんの存在や思いを無視することだと知りながら、人を励まし、救えるはずのエンタメがそちらを選び取ったからだ。
今回のケースで無視されたのは、あの3.11で深い傷を負い、未だそれを抱えながらも懸命に歩んでいる被災の地に生きる人たちの存在と、その人たちの今を届けたいと、誠実に1本の映画を作った人たちの思いだ。

一個人としてならどちらを選ぶのが正しいかわかっていても、組織としてはそうできないという事情があるのだ、そんなふうに言う人がいるかもしれない。
それはつまり、それを届けることでたくさんの人が励まされ、救われることよりも、私たちには見えない組織の論理を優先したということ。
またもや当たり前のようにそれを突き付けられたことに、私は心底落胆し、悲しんでいる。

こういうことを書くと
「それでも(組織の)中の人は戦ってる」といった擁護が届くことがあるけれど、正直、そういうのはもういいかな、と思う。
何年たってもこれなら、その戦い方が違うんじゃないか。
いい加減、だらしない。そう思う。

1枚の絵、1冊の本、あるいはひとつの良質のエンターテインメントが、今苦しみの中にいる人を救うことがある。
絶望の底の底でしゃがみこんでいる人に、もう一度上を向かせる光になることがある。
私にとってテレビはかつて、確かにそういう存在の一つだった。
いや、多様な境遇の人たちが真に良いものに触れる機会を提供する公器として、テレビは今でも重要なツールになり得るはずだ。
それなのに、そこに溢れているものが差別や偏見、人の心を殺すものばかりなのが辛い。

キー局には、これまでにもいくつも引き返せる地点があったと思う。
そして、これはもしかしたら最後に近いチャンスかもしれない。
しかし、それをも遣り過ごそうとしていることに、胸の奥がざわざわし続けている。

それでもなお、
1本の映画、ひとつのエンタメが持つ可能性を信じる人たちの手によって、この『凪待ち』が遠く、広く持ち運ばれることを願ってやまない。
この映画を愛する人たち、
被災の地を思う人たち、
傷を抱えながらも懸命に生きる人たち、
その人たちを忘れない人たち、
そんなたくさんの人たちの心と熱とが交差するところに、確かな希望の種が蒔き続けられることを、私は願ってやまない。

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